Classical

Brandenburg Concerti 1-6 Brandenburg Concerti 1-6
Johann Sebastian Bach、 他 (1990/10/25)
Polygram Int’l
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カラヤンの振るブランデンブルク協奏曲を聴いています。古楽器の演奏に比べると華やか過ぎる感じは否めません。というより、激しいバッハだな、と言う感じです。激しいなりに焦点が定まっていて、聞き手にとってはカラヤンの価値観がよく分かる演奏だと思います。たまにはこういうバッハも良いと思います。

Opera

Capriccio
ベームの振るカプリッチョ。バイエルン放送響、伯爵夫人にヤノヴィッツ、伯爵にディースカウ、フラマンにシュライアー、オリヴィエにプライ。豪華キャストです。ドレスデンのクラシックCDショップで買ったものです。
今日は月光の音楽から終幕にかけてを聞いてみました。この部分は、カラヤンもこの部分だけ録音しているという美しい箇所です。伯爵夫人のヤノヴィッツの声が、透き通るガラス細工のようで、心が揺り動かされます。オケも伯爵夫人の心の揺れを見事に表現していると思います。
今日のところはこの一枚を聞いて明日への勇気としましょう。

Miscellaneous



ナップスターhttp://www.napster.jp/を試してみました。というのも、1週間お試しで音楽ダウンロードし放題ということを知ったからです。

  • まずは、ナップスターのホームページでナップスターアプリをダウンロードし、PCにインストール
  • 名前を入力
  • コースを選択
  • クレジットカード情報を入力
  • 完了!

と言った感じで、手続きを済ませました。
ちなみに、クレジットカード情報を入力しますが、1週間は無料トライアルになるようです。トライアル期間が終わると自動的に課金期間に入るとのことです。課金を発生させないためには1週間が終わる前にトライアルをキャンセルする必要があります。
さて、ナップスターのアカウントは以下の三種類になります。

  • ナップスターベーシック(1,280円/月)
  • ナップスタートゥーゴー!(1,980円/月)
  • ナップスターアラカルト(150円/曲)

ベーシックとトゥーゴーは、無制限にダウンロード出来るのは同じですが、ベーシックには携帯音楽プレーヤーへの転送を行うのに制限があるようです。アラカルトは1曲150円ということで、iTunes Storeと同じ値段になっています。
さて、1週間のトライアル期間中は無料でダウンロード出来るようなので、いくつかダウンロードしてみました。ダウンロードしたファイル形式はWMA形式ですので、Windows Media Playerで聴くことが出来ます。192kビット/秒の品質ですので、そんなに音質の劣化を感じることはありません。
ただ、良いことばかりではなさそうです。僕のようにiPodを使っている場合は、AAC形式に再コーディングしたいところですが、「保護されているファイル」とのことで、iTuneでの変換は無理そうです。
というわけで、僕はトライアルが終わったらアラカルトにかえようと思っています。iPodに入れられないと言うことであれば、残念ですがそんなにメリットを感じません。コンテンツ保護のためと言うこともあるのでしょうけれど。
もっとも、MSとアップルが仲良く提携してくれれば、こういう問題もなくなるのでしょうが、携帯プレーヤで競合し、iTunes Storeとナップスターで競合している、という現状を見れば、提携なんてあり得ないと思いますね。
とりあえず、トライアル期間中に気になる音源はダウンロードしておこうと思っています。


追記です。
どうやら、トライアル期間が終わってアラカルトになると、これまでダウンロードした音源も聴けなくなるとの情報が…。まあ、1週間ダウンロードし放題なんていう、うまい話が本当にあるのか?と思っていたのです、案の定でした。残念です。

Tsuji Kunio

今日も「人間が幸福であること」から。

自分にあったものしか受け入れられず、合わないものに適合できなくなってゆくのは、老化の兆候である。若いときはどんなものにも適応してゆけるものだ。老人が保守的になるのは当然だ。彼らは慣れたものが心地いいのだ。変化を嫌うのだ。だが、ぼくにいま必要なのは、この変化に適合してゆく柔軟な能力だ。そのしなやかさがなければ、これからあとの仕事が豊かに独創的に生まれて来まい。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、82ページ

これは常々思っていたこと。最近変化を厭う気持ちが出てきたような気がしていたところでした。そう思った途端に老け込んでしまった気がするのです。いけませんね。新しいことに常に挑戦していくこと、改革とまでは行かずとも、慣れきったことを変えていく力を持つこと、これが大事だと思いました。大事だと思うだけでなく、実行していかなければならないですね。

Tsuji Kunio

今日も「人間が幸福であること」から数節を…。

<今>を掛けがえなく生きるとは<今>がもたらす<楽しさ>を十全に味わうことだ。逆に言うと<楽しさ>を感じることが、<今>を本当に生きるということなのだ。花の世話をして楽しかったら、そのとき<今>を生きていたのだ。仕事に夢中になって楽しかったら、それも<今>を生きていたのだ。このようにして蓄積してゆく<楽しさ>こそが生の内容にほかならない。この<楽しさ>の濃さが生の本当の意味なのだ。<楽しさ>のないまま、ただ時間を効果的に使うというのは、いかにも多くを生きたように見えながら、生きることから切り離され、無縁な仕事を集積させるに過ぎない。いかにすべてを<楽しみ>の中に取り戻すか──それが<今>に生きる鍵であるに違いない。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、124ページ

ぼくたちが本当の幸福を見いだしたいと思ったら、とにかく不必要なものを棄てなければならない。そして人目など気にせず、夢中になって好きなことに生きることだ。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、134ページ

幸福な人は、わざわざ幸福だとは感じない。ただ夢中になって時を経過したと思うだけだ。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、135ページ

特に

ただ時間を効果的に使うというのは、いかにも多くを生きたように見えながら、生きることから切り離され、無縁な仕事を集積させるに過ぎない。

の部分が心にしみいります。現代は「効率化」の世の中で、「効率的」組織の中に組み込まれてしまっている僕自身としては、複雑な気持ちです。もっとも「仕事に夢中になって楽しかった」数年間が僕にもあったと考えられるようになってきたので、少しは前進かもしれませんが…。いまはそうじゃないんですけれどね…。

Tsuji Kunio

人間が幸福であること―人生についての281の断章 人間が幸福であること―人生についての281の断章
辻 邦生 (1995/02)
海竜社

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最近体調が悪く本を読むことが出来ません。そんな中でもなんとか辻先生の作品を読もうとしているのですが、いくら辻先生の作品が好きとはいえ、体調の悪さに打ち克つことが出来ず、苦しんでいるところです。

とはいえ、断章ぐらいは読むことができよう、と思い「人間が幸福であること」を手に取ってみました。この本は辻作品の中から281のフレーズを取り出して、テーマごとに並べた本です。以下のようなテーマが並んでいます。

  • 人生の豊かな実りのために
  • 死を通って生へゆく道
  • 生のさなかにあって
  • 「いま・ここ」を生きる幸福
  • 生きることに夢中になる姿
  • 生への共感と愛着
  • 暮しを楽しむ・暮しを想像する

まずは、ぱっとページを開いてみて、断章を読んでみるのですが、まるで今の自分のために書いてあるかのような文章にぶつかるのが不思議に思えてなりません。たとえば…

この世にはどうにもならぬ悲劇がある。だが、それは途方もない幸運と同じように、それで人生がどうなるものというわけではない。どうかなったと思うのは、その大きさによって眼がくらまされているからなのだ。人間の上には同じように日が昇り、日が沈む。この一日一日をいかに耐え、見事に充実させるか──それのみが人間の仕事なのだ。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、70ページ

もう一度やりなおしてみるべきだよ。誰だって、過失はある。そのたびに何もかも投げだしたら、一生かかっても人はなにもできやしない。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、71ページ

災難が降ってきたときは、人間は、ただじっと忍耐してそれを遣りすごすより他ないんだ。災難はかならず過ぎてゆくものだから。

辻邦生『人間が幸福であること』海竜社、1996年、71ページ

昨日何気なく開いたページと、今日何気なく開いたページが同じページだったのも不思議ですが、そこに書かれていたことが、今の自分にとって価値あるものと思えるのも不思議なことです。

Classical

バッハ:チェンバロ協奏曲集 バッハ:チェンバロ協奏曲集
ミュンヘン・バッハ管弦楽団 (1989/07/01)
ユニバーサルクラシック

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久方ぶりにバッハのチェンバロ協奏曲を聴きました。10年以上前に聴いたきりだと思います。
憂いを帯びた弦楽合奏の音色に胸が引き裂かれるような気分になります。どうしてだろう、と考えてみました。
リヒターはモダン楽器を主に使い、ピリオド楽器は通奏低音におけるヴィオラ・ダ・ガンバのみだったそうです。このことに関してはいろいろと意見があるようですが、この弦楽合奏を聴けば、必ずしもそれが失敗だったと決めつけることは出来ないと僕は思います。ただ、この音色であれば、チェンバロの替わりにピアノを使ってみてもいいのではないか、とも思いました。確かにすこし弦楽部が前に出来てしまっているような印象があります。チェンバロの音をもう少し聞きたいな、という欲求もあります。
書いていて思ったのですが、僕はこの音の印象を持つ録音をもう一つ知っていることに気づきました。クレンペラーが振ったバッハのミサ曲ロ短調です。あの演奏もやはりモダン楽器を使った壮大な印象だったのですが、どこかに悲痛感や憂愁感を感じた録音でした。同じモダン楽器を使ったバッハということが共通点にあるのみですが、どうやらモダン楽器だから分かるバッハの憂愁感というものがあるようです。楽器の性能が良くなったが故に、バッハの真意を汲み上げることができるようになっているのかもしれません。もちろん逆にピリオド楽器でないとバッハの真意をくみ取ることが出来ないという考え方もありますけれど。

Tsuji Kunio

From For Blog

夏の海の色 夏の海の色
辻 邦生 (1992/04)
中央公論社

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<夏の海の色:赤い場所からの挿話 IX>「夏の海の色」

夏の海の色から「夏の海の色」を読む。


あらすじ

主人公の「私」は中学受験に失敗している。浪人しようか、第三志望の中学にいこうかと悩んでいるのだが、叔母の妹である咲耶は第三志望の中学校に入った方が良いと言うのだった。

「私も学校のことにこだわる人、嫌いよ」咲耶は私を慰めるつもりだったのか、極端な言い方をした。「いい大学を出たって、駄目な人は本当に駄目なのよ。学校のことにこだわる人ほどろくな人はいないわ。」

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、105頁

こうして「私」は第三志望の中学に進むことになった。中学校では剣道にいそしむ毎日。入学試験に失敗したことを得意な剣道に打ち込むことで癒されていくのだった。

咲耶から家に遊びにおいでと誘われるのだが、二年生になってやっと行くことが出来る。咲耶の住む街は古い城下町なのだった。

都市の中央に石垣と、青く水を湛えた堀割の残る城址があり、石垣に囲まれた三の丸、二の丸から本丸にかけて、樟の繁る影の濃い公園になっていて、夏の昼下がりには、行商人が荷を置いて、その木陰で昼寝をしている姿をよく見かけた。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、108頁

私は、城下町を歩きまわって、歴史を楽しむのだった。剣道も朝と夕方に素振りをしていたのだが、咲耶が気を利かせて地元の中学校の剣道部に練習にいけるように手配をしてくれたのだった。武井という男と親しくなる私。ただ、武井が咲耶と親しいことに少しいらだちを感じている。

剣道部の練習に行くと言うことで、土蔵の中から剣道具を運び出そうとする咲耶と私。私は土蔵の中で、咲耶とその子供と思われる写真を見つけるのだった。だが、なにか触れてはならないことのように思えてならないのだった。

地元の中学の剣道部の練習に参加する私。やはりここでも剣道の旨さで一目を置かれるのだった。そのうちに合宿を海辺の街で行うことになったのだという。参加しようとする私だが、咲耶は行っても良いが絶対に海で泳いではならないという。

「私ね、あなたに海で泳いでほしくない──それだけなの。わけは訊かないで頂戴。でも、これだけは約束して」
 私は咲耶の切迫した表情を見ると、いやと言うことは出来なかった。
「絶対に泳ぎません。誓います」
 私がそういうと──私は今もそれを眼の前に見るような気がするが──咲耶の眉の間から、何か凍りついていたどす黒いものが、見る見る溶けて流れ落ちていった。それはいかにも安堵の思いが顔に拡がってゆく、という感じだった。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、127頁

海辺の街で剣道の練習に勤しむ私。だが、武井の唆しにも関わらず、咲耶との約束は決して破らず、海で泳ぐことはなかった。合宿も終わろうとする頃、咲耶から電報が届く。合宿が終わってもそのまま宿舎の寺に残るように、とのことだった。

数日後、咲耶が現れる。寺の住職と話をしている。私に一緒に浜まで出てくれないかという咲耶。浜辺には船頭が船を準備して待っていた。船に乗り込むと、沖合の赤いブイのあたりまで船をすすめるのだった

「典ちゃん、お母さまが来たわよ」咲耶はそういって、船縁から身を乗り出すようにして波の底を見つめていた。
「いいのよ。そんなに無理に笑わないでも。お母さまは、あなたがそうして許してくれるって言うだけで、もう十分なのよ」
 彼女は長いこと両手をあわせて船縁に蹲っていた。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、132頁

咲耶は城下町の出身で東京の良い大学をでた男と結婚していた。だがその結婚は望んだ結婚ではなかったのである。10年目に子供をおいて離縁したのだが、その子供はこの海で、ちょうどブイのあたりで溺れ死んだというのだった。


この城下町のモデルは、辻先生が高等学校時代に過ごした松本市であると言われています。それでは、合宿をした海辺の街はどこなのでしょうか?想像ですが、僕は湯河原ではないかと思うのです。こんなシーンがあります。

 そうした夜、寝床から這い出して窓から外を覗くと、月が暗い海上に上がっていて、波が銀色に輝き、本堂の裏手の松林の影が、黒く月光の中に浮び上るのが見えた。

辻邦生「夏の海の色」『夏の海の色』中公文庫、1992年、129頁

この文章から、月は海上にあがりはじめたと読むことができます。「上がっていて」という文章は、寝る前には月は上がっておらず、夜中になってみると月が上がっていた、ということになります。月は太陽と同じく東からのぼり西へ沈みます。したがって、この月はおそらく東から南にかけて上っていたことになります。もしこの海辺の町が日本海側にあるとすると、東から南にかけては山になりますので、この描写は不可能です。ということは海辺の町は太平洋側にあるのではないか、と考えられます。さて、なぜ湯河原なのかというと、ここからは少し僕の個人的な感情や経験が入ってきます。辻先生は終戦界隈に湯河原に疎開しています。

湯河原での日々は、時間を失ったような不思議なノスタルジーに満ちたものでした。徒歩で十国峠へ登り、芦ノ湖に出てみたり、熱海で映画を見たり、吉浜に疎開していた獅子文六に会ってフランス演劇の話を聞いたりしました。

辻邦生「松本 わが青春」『言葉が輝くとき』文芸春秋、1994年、306頁

小田原から湯河原にかけて、夜半前の時間に海沿いの道路を走ったことがあります。湯河原に向かう道路の左手には滔滔とした相模湾のうねりがあって、その上に銀色の満月がギラギラと輝いていて、うねりのある柔らかい海面に月の光が反射していてまぶしいほどの美しさだったのを覚えています。辻先生の文章を読むと、この夜の湯河原への記憶が甦ってきたのでした。辻先生もきっと湯河原で海面に映る満月の光を見たに違いない、と思うのです。

Miscellaneous

最近思うのは携帯を打つ速度が遅いと言うこと。キーボードの方が速いのは当然なのだが、携帯でサクサクメールを書く若い子達を見て、高校生の頃、ブラインドタッチをマスターした時のことを思い出したのである。その頃はブラインドタッチをものにした人はあまりいなかったから、一生懸命頑張って練習したものだった。携帯での文字入力も同じではないか。若い子達は、信じられない速さで携帯で入力できるのに、そこから逃げてはならないのである。機会を捉えてモブログで携帯での文字入力を練習しよう。

Classical

Samuel Barber: Orchestral Works, Vol. 2 Samuel Barber: Orchestral Works, Vol. 2
Wendy Warner、 他 (2001/03/20)
Naxos
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バーバーのアダージョを聴きました。家族はこういいます。「よくアメリカ映画でこの曲使われているよね。凄惨な戦闘シーンが音なしスローモーションで流れるとき、この曲をバックで流すよね」
たしかに、ありがちな状況です。
悲哀をおびた音楽なのですが、落ち込んだときに聴くと、逆にいいセラピーになる曲です。これから聴く機会が増えそうです。