Book,Tsuji Kunio

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先日初詣に向かう途中でとった写真。季節外れですが、余りにさわやかな風景でした。

城・ある告別―辻邦生初期短篇集 (講談社文芸文庫)
辻 邦生
講談社
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辻邦生「西欧の光の下で」を今日も読んでいますが、その中で、文学が有効な表現形式であるかどうかを考えることが極めて難しく、それ自体が文学的主題となりうる、というようなことが書いてありました。

昭和30年代のことです。戦後の頃といえば、まだまだ文学に力があった時代で、文学をやるなんていうことは普通に出来た時代と思っていたんですが、そうではないということですね。この様なことを辻邦生が考えていたということは前から知っていましたが先日ボエームの記事を書いたあとだっただけに、なにか少し気になるものを感じました。

辻邦生は「小説が書けない」という状況を突破するのに苦労したとのことなのですが、それは辻邦生個人の問題として捉えていました。終戦によって価値が転換してしまったことで、根底から価値観が変わってしまったという状況が、辻邦生にとって文学を難しくしてしまった、ということです。ですが、当時にあっても、文学形式が時代遅れ、というような空気もあったのではないか、と思ったのです。

文学なんてもう時代遅れで、これからは映画やテレビの時代だ、というような空気。

それは今とあまり変わっていないのではないか、という感じです。

最も、今は映画やテレビにくわえて、SNSやゲームが競合です。とくに若い世代にとってはゲームが必需品となっています。ゲームには、物語性もビジュアル性もあれば、さらにそこにインタラクティブな要素もあります。

そんな中にあって、辻文学に限らず、文学全体が時代遅れ、という言い方もできるかもしれません。もっとも、先に書いたように、今も昔も時代遅れなのかも。

ただ、結局は先鋭的な意見は誤っている、ということなのでしょう。時代遅れと言いながら何十年も残っているのが文学であり、音楽であり、映画であり、という言い方もできます。時代遅れ、という価値評価自体が時代遅れなのかも、などと思います。

ではおやすみなさい。グーテナハトです。