Opera,Richard Wagner


イレーネ・テオリンさんは、ブリュンヒルデとして第三幕最終部に登場します。演出面は後ほど触れるとして、テオリンさんの歌声のすばらしさ。私は、昨年2009年の夏までは、ビブラートの強い女性歌手が苦手でした。そういう意味ではテオリンさんはその部類に入ってしまいます。ですので、2009年バイロイトの「トリスタンとイゾルデ」のテオリンさんの歌声も最初は理解するのが難しかったわけです。ですが、ペーター・シュナイダー氏のあまりに透き通る柔らかく鋭利な演奏に導かれて何度も聴いていくうちに、ある日突然地平が開けました。テオリンさんの強力な個性とテクニックの発露の結果がこのビブラートなのだと。
私が嫌うビブラートは、歌手がピッチの悪さを隠すために行うものです。これって、管楽器でも一緒です。ロングトーンやるとボロがでるので、ビブラートでごまかしてしまう、なんていう状態。サックス吹きだった私もそういう邪念を持っていたことがありますので、人のことは申せませんが、だからこそ、わかったことでもあるわけですね。
テオリンさんの場合、ピッチは悪くなく、ビブラートは彼女の協力無比な声量声質を後押しするブースターのようなものなのです。テオリンさんに関して言えば、2008年11月の新国立劇場「トゥーランドット」でトゥーランドット姫を演じた際にも実演に触れているのですが、あの時もあまりに強力無比な声に圧倒されましたが、まだまだ理解が足らなかったですね。今はもう、ただただひれ伏すのみなのです。
それから、テオリンさんは本当に美しい方です。それでいて、やっぱりブリュンヒルデ歌いですので、雄雄しく凛々しくもあります。この感じは、2009年のバイロイトの「トリスタンとイゾルデ」でも感じました。第一幕のイゾルデはあまりにニヒリストで、トリスタンやクルヴェナールへの敵意むき出しでした。媚薬を飲んだ途端に、彼女は表情を変え、互いに求めあう一途で忘我状態で切迫した表情に変わってくる。
私は、あの「陥落」のシーンに大いに感動したのですが、私はそれと同じ状態をこの「ジークフリート」の最終幕でも見ることになるとは思いませんでした。世間知らずのオタク的奥手であるジークフリートが、ヴォータンの娘である女神ブリュンヒルデに求愛するなんていうことは、あまりに 畏れ多いこと。そのブリュンヒルデの戸惑いの表情を私はオペラグラス(双眼鏡ですが)でちゃんと見ていました。

Opera,Richard Wagner





最近、とみに重苦しいこのサーバー。Movable Typeなんていう、重いブログスキームを使っているのもあるのですが、書いていた記事がパーになってしまうことがしばしばでした。今日に至っては、別のスキーム(Pukiwiki)ですら落ちてしまいました。30分を返してくれ。あんなに、クリスティアン・フランツ氏やイレーネ・テオリンさんのことを書いたのに……。
気を取り直して。もう24時間経ってしまいましたが、昨日の新国立劇場「ジークフリート」の件です。6時間の体験で、私の思念はあらぬ方向へと舞い続け、大変貴重な経験となりました。人生に数少ないときめいた時間でした。
音楽面、演出面、総括、ということで三部構成にします。今日は音楽面について。
クリスティアン・フランツ氏がジークフリートです。すばらしいですよ、この方は。まずはなにより声が美しい。甘さとりりしさを併せ持つ英雄テノールです。ルネ・コロ氏のよりもさらに美声ではないか、と思うほど。ですが、ジークフリートに、お姫様を接吻で目覚めさせる白馬の騎士を求めておられる女性陣には少々不評だったようです。そんな声が座席の後ろから聞こえてきましたので。まあ、確かに背が高いわけでもなく、恰幅も悪くありませんので、すらりとしたスマートなジークフリートではないのです。
ですが、私は音楽面、演出面の両面において、彼は本当にすばらしかったと思うのです。音楽面はもう申し上げたとおり。これほど巧みで甘いテノールに直接触れられたことは本当に幸運でした。演出面、ですが、この東京リングの演出要素の一つとしてキッチュな面があるわけです。たとえば、ジークフリートが来ているTシャツには、スーパーマンマーク(Sのマーク!)が書かれているという俗悪さ。ジークフリートが会ったこともない両親のことを想像している時に至っては、鹿やら熊の着ぐるみが登場するのですが、この着ぐるみがディズニーランドでバイトの若者が着ているような着ぐるみ。ここまで来ると、本当にしてやられた、という感じです。
芸術の一つの要素は、受容者の心にさざ波を立てることですので、こうした挑発的な演出には賛成です。おっと、演出については明日書く予定でした。まあ、そうした文脈において、彼の容姿風貌は演出に実にマッチしていたともいえるわけです。もっとも、そうした容姿風貌がもたらす若干のディスアドヴァンテージなんて、彼の歌のすばらしさの前にあっては吹っ飛んでしまうんです。そんな感じでした。
ミーメを歌われたヴォルフガング・シュミット氏。私はのっけからぐいっと引き込まれてしまいました。この方の歌は初めてではありません。2008年2月の新国立劇場「サロメ」でヘロデ王を歌っておられたのですが、そのときもすばらしい歌唱でした。ヘロデ王の弱虫で軟弱で優柔不断な面をうまく歌い演じておられたのです。(https://museum.projectmnh.com/2008/02/04055751.php)ヘロデ王とミーメは親和性高いですね。この二役で思い出すのはハインツ・ツェドニク氏です。この方は、新国でヘロデ王を歌っていましたし、レヴァイン盤ではミーメを歌っていますし。ついでに、ミーメを歌える方は、「ヴォツェック」の大尉も歌えるはず。ツェドニク氏はアバド盤で大尉を歌っておられます。
さすらい人、すなわちヴォータンは、ユッカ・ラジライネン氏。この方はもちろん昨年の「ラインの黄金」、「ワルキューレ」でも活躍されました。そしてもう一つ、昨年2009年夏のバイロイト「トリスタンとイゾルデ」でもクルヴェナールとしてイレーネ・テオリンさんと共演してましたね。「ワルキューレ」から一年。今回は長髪となって登場。しかし、この方は本当に安定しています。本当にうまいのですね。安心して聴いていられます。さすらい人=ヴォータンの苦悩をうまく歌っておられました。
長くなったので今日はここまで。イレーネ・テオリンさんについては明日書きましょう。

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ああ、ブログ書いたら、オペミスで消えてしまった。また書かないと。
さて、今朝は少々暖かいです。昨日と打って変わって実によい天気です。今日は新国立劇場で「ジークフリート」を聴きます。と言うわけで、昨日に引き続き予習中。今日はハイティンク盤を聴きましょう。

  • 作曲==リヒャルト・ワーグナー[ヴァーグナー]
  • 指揮者==ベルナルト・ハイティンク
  • 管弦楽==バイエルン放送管弦楽団
  • ヴォータン==バリトン==ジェイムズ・モリス
  • ファフナ-==バス==クルト・リドル
  • アルベリヒ==バリトン==テオ・アダム
  • エルダ==ソプラノ==ヤトヴィガ・ラッペ
  • ジークフリート==テノール==ジークフリート・イェルザレム
  • 鳥の声==ソプラノ==キリ・テ・カナワ
  • ブリュンヒルデ==ソプラノ==エヴァ(エーヴァ)・マルトン

私のリング体験は、ショルティに始まり、サヴァリッシュで考え、カラヤンで感涙し、レヴァインで畏怖し、ハイティンクで恐懼に達しました。ちょっと言いすぎですか。
ともかく、私の今の一番のレコメンドはハイティンク盤でしょう。1990年にミュンヘンのヘラクレスザールでの録音でして、まずはともかくサウンドが素晴らしいのです。ハイティンクのバランス感覚はもとよりエンジニアも素晴らしいのでしょう。ヘラクレスザールと言えば、私の大のお気に入りであるベームの「カプリッチョ」の録音場所でもあります。残響感はドレスデンのルカ教会ほどではありませんが、控えめというわけでもありません。良い頃具合のアコースティックですね。私はリヴァーヴ大好き人間ですので、新国立劇場大ホール(つまりオペラパレス)のデッドな感じは少し残念に感じてしまうのです。
さて、ブリュンヒルデを歌っておられるエヴァ・マルトンさん、素敵ですねえ。力強く豊かでたくましいヒロイックな女傑的ブリュンヒルデです。役名と同じ名前のジークフリート・エルザレムも良いですねえ。若々しくたくましい。
本当に、こういった場所で活躍しておられる方は本当に歌手でいらっしゃいます。歌手と名乗る方はたくさんおられますけれど。
ハイティンク氏には、この一年で本当にいろいろと素晴らしい体験をさせてもらいました。もっと聴かないと。ああ、リングももっと聴かないと。
今日の所要時間は5時間55分だそうです……。なんと。14時に始まり終わるのは20時を回るでしょう。休憩時間は50分と45分。ジークフリートは出ずっぱりですから、休まないとダメですよね。私も心して気合いを入れて聴いて参ります。

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今朝は暖かいですね。昨日のめまいは寒さも原因ではないかと。それぐらい昨日は寒かったのです。
今日は新国で「ジークフリート」です。と言うわけで、予習励行中。今朝はハイティンク盤を。
ハイティンク盤は、録音も好きなんです。ミュンヘンのレジデンス内にあるヘラクレスザールでの録音です。ベームの「カプリッチョ」もヘラクレスザールですね。ドレスデンのルカ教会のような強い残響感はありませんが、バランスの良い吸い込まれるような響きです。そう言う意味では新国の大ホール(オペラパレス)は僕にとっては響きは少々デッドかなあ。12月に聴いた「トスカ」で抱いた印象です。なんだか、音の良さにこだわりが出てきた感じ。しかしステレオなど買う気はありませんけれど。

  • 作曲==リヒャルト・ワーグナー[ヴァーグナー]
  • 指揮者==ベルナルト・ハイティンク
  • 管弦楽==バイエルン放送管弦楽団
  • ヴォータン==バリトン==ジェイムズ・モリス
  • ファフナ-==バス==クルト・リドル
  • アルベリヒ==バリトン==テオ・アダム
  • エルダ==ソプラノ==ヤトヴィガ・ラッペ
  • ジークフリート==テノール==ジークフリート・イェルザレム
  • 鳥の声==ソプラノ==キリ・テ・カナワ
  • ブリュンヒルデ==ソプラノ==エヴァ(エーヴァ)・マルトン

13==ブリュンヒルデ

キリ・テ・カナワ、いいっすね。鳥の声にスポット出演。カメオ的登場でしょうか。ブリュンヒルデのエヴァ・マルトン、この方も良いですねえ。私はドミンゴと一緒に出ている「トゥーランドット」のDVDで聴いたことがありますが、パワフルなソプラノで実に良い感じ。今日聴く予定のイレーネ・テオリンも新国でやはりトゥーランドット姫を歌っています。2008年11月に新国トゥーランドットのオペラ・トークで、故黒田恭一さんが、トゥーランドット姫の役柄はパワフルなブリュンヒルデ的ソプラノが歌うので、イタリア語の歌詞にドイツ語訳がついている、とおっしゃっていました。まさにその通りです。
ハイティンクの美的感覚は、実に素晴らしく、私が申し上げるのもなんだか畏れ多いぐらいです。音量のコントロール、抑制されながらもなお緊張感を保つ音作りです。私はリングは、ショルティ、カラヤン、レヴァイン、ハイティンクを聴いたのみで、お恥ずかしい限りですが、この四者のなかでもっともきにいっているのがハイティンク盤です。ああ、でももっと別の演奏も聴かないと。
今日の所要時間は5時間55分だそうです。。。終わるのは20時を回ります。休憩がめちゃ長い。50分と45分。まあ、歌手も長丁場ですので。特にジークフリートは出ずっぱりです。最終幕のジークフリートとブリュンヒルデの感動のダイアローグが待ち遠しいです。

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うーん、最近のMovable Type(このブログのシステム)が重いなあ、と思っていますが、Wordpressなどに移行するのも面倒。もう少し軽いCMSがないか、と探し出したのがdokuwikiなのですが、インストールうまくいかない。ちょっと考えます。まあ、Movable Typeのウェブページ機能を使ってもいいのですけれどね。重いからなあ。。。

明日はいよいよ東京リング第二夜「ジークフリート」です。だいぶんと予習も進んできました。今日はレヴァイン盤を聴いています。

ジークフリートはライナー・ゴールドベルク、ブリュンヒルデはヒルデガルト・ベーレンス。ミーメはハインツ・ツェドニク。豪華だ。レヴァインらしく重みと絢爛さを併せ持った演奏です。

先日聴いたカラヤン盤は、意外にもテンポを動かしているので驚いたのですが、レヴァインはテンポ感覚が実に面白くて、ダイナミックなのです。レヴァインのヴァルキューレを聴いてみたい。まだ持っていないのです。

しかしやっぱり面白いのは第三幕のブリュンヒルデが絡んでくるあたりからですね。まだこのあたりは幸福感に満ちあふれています。「神々の黄昏」の悲劇的な終幕を知っているからこそなのですが。ある種、幸福は盲目ですので。

ジークフリートは真っ白な純真無垢な英雄ですが、その彼が初めて恐れを感じたのが女性だったとは。うーむ、考えさせられます。男女は互いに完全に理解することは不可能ですので、未知ほど恐ろしいものはありませんから、でしょうか。トリスタンとイゾルデの大人の愛や、ジークリンデとジークムントの禁断の愛に比べて、ジークフリートとブリュンヒルデの愛になにか物足りなさを感じてしまうのは私の読み込みが足りないからでしょうか。トリスタンとイゾルデも、ジークリンデとジークムントも、障壁を持った愛情関係ですが、ジークフリートとブリュンヒルデは一目惚れ状態で全く障壁がありません。障壁は「神々の黄昏」で登場するわけですけれど。

明日、じっくり聞いて考えてみます。

Jazz

最終曲は、この数日間どっぷりはまっているOriginal raysという曲。正規盤アルバムでもEWI(Erectric Wind synthe:電子木管)の長めのソロがありますが、この非正規盤アルバムでは10分近くにわたってEWIを操り八面六臂の活躍です。この世界は彼独自のものでしょう。他のアーティストはこんなことやらない。少し茶目っ気を盛り込んだフレーズを吹いて見せたり、シンセサイザーの性能をフルに活かして、多種様様な音色をコントロールする。シーケンサーでリズムパターンを入れてそこに強烈なシンセサイザーの音を重ね合わせて作り出す世界は強烈で色彩的で初めて聴いたときにきっと戸惑うことは間違いないでしょう。
このたぐいのシンセサイザーソロは、ステップスアヘッドというバンドの1986年のライブ映像や、1990年代前半、ブレッカー・ブラザーズ名義で来日した際の映像でも見ることが出来るはず。1986年の映像では、シンセサイザーの性能が不十分と言うこともあるのでしょうけれど、サークルの連中に見せたらメタメタに批判されました。「こんなの今聴いてなんか意味あるんですか?」みたいな……。哀しい思い出。私は好きなんですけれどね。
1990年代の映像では、リズムパートもシーケンサーではなくEWIで音作ってましたからね。EWIでドラム音を出して、おそらくはそれをエフェクターでループさせていたんだと思います。そうして自分で作ったドラムとベースに乗っかって、華麗なソロを繰り広げていました。あれは神業。誰もまねできない。いやいや、まねは出来るかも知れない。でもそれはまねでしかない。超えることは出来ない世界です。
ちょっと議論を戻します。この非正規盤アルバムで演奏されるOriginal Raysは、正規盤アルバムのそれより素晴らしいと思っています。まず、マイケルのソロフレーズのテンションが極めて高いのです。それはおそらくはライヴ収録であるからという理由もあるでしょう。テナーサックスの最低音からフラジオ奏法(ハーモニクス奏法)で超高音まで駆け上がる様は、テナーサックスを限界まで駆使したものでアマチュアがまねできるものではありません。いや、半年あればまねできるかも。でもそれはまねでしかない。
最近の若いバークレーのミュージシャン達はマイケルの演奏を理論分析して咀嚼(租借(笑))活用しているようですけれど。私ももっとまねするんだった。詰めが甘いのは昔も今も変わりません。ともあれ、マイケルのフレージングは調性感が希薄でして、なんだかベルクやウェーベルンを聴いているような気にもなるのです。
マイケルのフラジオ高音がピッチを狂わすことなく正確無比にヒットするのは実にスリリングなのですが、それ以上以上に最低音域が倍音をしたたるぐらいに豊かに鳴り響くのも実に凄いですよ。最低音域はキーを全部閉じますのでテナーサックスの官の長さをフルに使った音ですし、通常コーンに取り付けるマイクも音を十二分に拾いますので、豊かな音が拡大されるわけです。
サックスソロの後に続くマイク・スターンのギターソロもいいんですよねえ。最初はかなりナチュラルな音で勝負するのですが、ソロが盛り上がるとディストーショーンを踏んでメリハリをつけるのは彼の常套手段。我々アマチュアがやると、すぐに真似したとばれてしまう。そういえば、生涯に一度だけブルーノート東京に行ったことがありますが、あれはマイク・スターンバンドだったなあ。足を激しく揺すってリズムをとっていたのを思い出しました。
あ、裏ではちゃんとワーグナー聴いてますよ。ジークフリートは今週末です。エッティンガーの指揮が楽しみです。それからイレーネ・テオリンが覚醒する第三幕も!

Jazz


私がマイケル・ブレッカーに熱中していたのは1993年から1998年頃まででした。その後ももちろん折に触れて聴いていましたが、21世紀なって私がオペラと言う名の底なし沼に沈み込むにつれて聴く機会が減りました。
先日、大学のサークルの偉大な先輩後輩達とお会いしたことを書きましたが、某有名喫茶でマイケル・ブレッカーのアルバムを聴いてから情熱が再燃しました。飽くことなく浴び聴いたマイケル・ブレッカーのインプロヴァイズが、未だに体にしみこんでいて、全く違和感なく享受し飲み込むことが出来るのには驚きました。何年も経っているというのに。
やはり若い頃に聴いたものは、齢を重ねてから聴くのとでは意味合いが大きく違います。もちろん私はある種の総体的な尺度を使えばまだ若い部類に入りますので諦めてはいけませんし、シュトラウスの「カプリッチョ」という宝物も30歳を過ぎてから見つけたものです。まだまだ諦めてはいけません。
さて、本日のこのアルバム、1995年頃に出回っていたものです。今は通常のレコード屋で見かけることは待った気宇なくなりましたが、Amazonでは入手できるようですね。
収録されているのはたったの三曲。
01 Gossip
02 Nothing Personal
03 Original Rays
1曲目は当時のマイケル・ブレッカーバンドのギタリストだったマイク・スターンの手によるGossipと言う曲。彼のいわゆる変形フレーズ(とある人は変態フレーズと呼びます)が十全に汪溢した楽曲。もちろんマイク・スターン名義のアルバム「Time In Place」にも収録されています。こちらは、マイケル・ブレッカーと並び立つフュージョン系テナーサックスの巨頭だったボブ・バーグによって演奏されています。残念ながらボブ・バーグも交通事故で数年前になくなっています。どうしてこうも素敵な方々が命を落とすのだろう。きっと神様に愛されすぎたのですね。
2曲目、こちらもNothing Personalという曲。たしか、ドン・グロルニックというピアニストの曲だったはず。彼は1980年代中盤までマイケル・ブレッカーや、マイケルの兄のランディー・ブレッカー、あるいはアルトサックスのデイヴィッド・サンボーン達と組んでいらした名ピアニスト。彼ももう故人なのですよ。哲学を専攻しておられた方です。Nothing Personalは、マイケル・ブレッカーのファーストアルバム正規盤に収録されています。そちらではパット・メセニーがギターをつとめますが、このアルバムではマイク・スターンが大暴れしてくれます。
最終曲original Rayについては明日。

Jazz

昨晩は大学のジャズサークルの同窓会的オヤジ会でした。予想通りの野郎だけの会でしたが、実に楽しかったですよ。過剰に思い出に話が向くわけでもなく、ジャズの話だけになるわけでもなく。若い自分の四年間(かそれ以上)を一緒に過ごした方々は、本当に大切です。
尊敬する先輩から「おまえのブログは長すぎるんだよ。一画面に納めろ」と言われました。長くてすいません。そういえば、先日も会社の他部署管理職からも、一文が長すぎる、と指摘されました。ブログが長くなるのも、一文を長くするのも理由があるんですけれどね。
さて、昨日の待合せ場所は都内某所の有名ジャズ喫茶でした。訪れるのは7,8年ぶりでした。19時待合せだったのですが、私は18時20分頃到着して、すかさずリクエストしたのが、このアルバムです。Michael Breckerのファーストアルバムで、名前はそのまま「Michael Brecker」。1987年のリリースですのでもう21年前ですか。マイケルブレッカーは40歳にかかろうかというところ。まだ髪の毛がうっすら残っております。
私は、最大重量を日々更新中ですので、先に店に着いた私に誰も気づかなかったみたいです。貫禄あるオッサンがまじめにブレッカーにききいっているなあ、と思ったとのこと。やせないと。
このアルバムは豪華メンバーです。
サックス:マイケル・ブレッカー
ギター:パット・メセニー
ベース:チャーリー・ヘイデン
ピアノ:ケニー・カークランド
ドラム:ジャック・ディジョネット
垂涎。
01 – Sea Glass
02 – Syzygy
03 – Choices
04 – Nothing Personal
05 – The Cost Of Living
06 – Original Rays
07 – My One And Only Love
昨日はB面をリクエストしました。Original RaysとMy One and Only Loveの2曲を聴きたかったのです。ですが残念なことにMy One and Only Loveはレコードには収録されていなくて、CDのみのボーナストラックだったのですね。。
前にも書きましたが、最近はピッチの善し悪しの感覚が出てきたのですが、マイケル・ブレッカーのサックスはピッチいいです。それは正確さという観点もありましたが、微妙なピッチの揺らぎのようなものをコントロールしているという観点においても、です。フィッシャー=ディースカウの歌も、ピッチの揺らぎがあってすばらしいのですが、それと似た感覚です。あと音いいですね。当然ですが。フレージングがすばらしいのはあまりに明白。
B面がNothing Personalというマイナー・ブルースで始まったのですが、この曲、昔バンドでやったことがあるなあ、と郷愁に近いものを感じました。バンド名はパート・アンド・アルバイトでしたね。懐かしすぎる。
お目当てのOriginal Raysは、EWI(Electric Wind Insturuement)のソロで始まります。アルバムなので短いのですが、ライヴでは大暴れでして、15分ぐらいEWIをフルに使って、どえらい世界を展開します(ここを批判する人もいますけれど)。海賊版のライヴ盤で聴くことができます。EWIについては、長くなるのでまた明日書きましょう。この曲のコード進行が気持ちよくて、なんだか未来への希望を感じてしまうのです。若い頃を思い出してしんみり。こんなはずじゃなかったとか、進歩史観なんて幻想だなあ、とか。もちろんマイケル・ブレッカーの不在にも。
っつうか、ジャズももっと聴かないとなあ。途中でやめちゃうのはもったいない。サックスもそうですけれど。
でも来週は「ジークフリート」です。こっちも楽しみ。

Jazz

久々にマイケル・ブレッカーを聴いてみました。というのも、今晩、大学の時にジャズを一緒にやっていた先輩方とお会いするので。最近、ジャズ聴いていないので、話すネタがないと思います。たぶん、いろいろ聴いて終わってしまうんだろうなあ。僕がクラシックの話を開陳してもあまり意味がなさそうですので。
それで、久々に聴いたのがこのDon’t try this at homeというアルバムでして、マイケル・ブレッカー名義の二枚目のアルバムです。大学の頃はこのたぐいのCDばかり聴いておりました。何年経っても曲を覚えているもので、マイケルの複雑怪奇なインプロヴァイズもかなり覚えていて血液が逆流する思いです。懐かしい。
やはり、もうサックスは吹けないなあ、と改めて思いました。偉そうですが、自分の審美眼が、自分の能力とか可能性を超えてしまったので。
そういう状況に陥ったとき二つの選択肢があります。
1)審美眼に追いつかなくなった時点でやめてしまう。
2)批評(審美)と、実践(演奏)を分けて考える。
おそらく2)のほうが賢いやり方だと思いますが、僕はどうにも1)の方向に行ってしまいます。
演奏する行為自体は楽しいので、その楽しさを大事にすればいいとも思ったりしたこともあるのですけれど。まあ、楽器は練習しないと当然うまくなりませんが、サックスの練習は勤め人に撮ってはそうそう手軽にできるものでもないです。
今晩、先輩達に会えるのでワクワクしています。昔は、週末三時間地下のスタジオにこもって練習したりしたなあ、なんて懐かしい思い出。最近のジャズ事情とか聞けるといいなあ。
アルバムの話を。
01 – Itsbynne Reel
02 – Chime This
03 – Scriabin
04 – Suspone
05 – Don’t Try This At Home
06 – Everything Happens When You’re Gone
07 – Talking To Myself
08 – The Gentleman & Hizcaine
1曲目、Itsbynne Reelは、カントリー風の音楽なんですが、マイケルがEWIの卓越した演奏でヴァイオリン──あるいはここではフィドゥルと言った方がいいかもしれませんね──とユニゾンで印象的なフレーズを繰り返す。バッキングのピアノも実にカントリー風なんですが、マイケルがテナーで入ってくると、これがまた色調ががらりと変わって、アドレナリンが充溢してきます。ああ、やっぱり音いいなあ。
4曲目のSuspneは、たしかギターのマイク・スターンの曲。マイク・スターン的変態旋律がオーソドックスな循環進行に乗っかっているんですが、ジャジーでありながら、コード解釈が新鮮で(今となってはもう普通なんですけれど)ぐいぐいとあらぬ方向に引っ張られるスリルがたまりません。こういうスリルは、ベルクを聴くときの感覚と似ています。マイケル・ブレッカーの循環、たまりませんね。懐かしすぎる。
やはり一番いいのは5曲目のDon’t Try This At Homeです。綱渡りのような緊張感の上で自由なインプロヴァイズ。ここはメンバーが良くて、ピアノはハービー・ハンコック、ギターはマイク・スターン、ドラムはジャック・ディジョネット、ベースはチャーリー・ヘイデンですからね。ハービーのバッキング、格好いいです。ディジョネットもディッジョネットらしい暴れっぷりで、言うことないです。ブレッカーもあおられて、興奮度120%というところ。名演です。
ちなみに、このジャケット写真も格好いいですよね。テナーを意のままに操る。しかも、アクロバティックで斬新に、というメッセージが伝わってきます。
ジャケットの裏には、テナーだけが残り、マイケルの写っていない写真。今となってはこれが現実です。マイケル亡き後の寂々たる思い。






American Literature

いやあ、これ戦慄です。飛行機に乗る前、絶対に読んではいけません。
悪天候のカンザス・シティ空港で離陸を待つノース・アメリカ航空ボーイング737型機に、着陸を試みる同じくノース・アメリカエアバス320型機が激突し、100人以上の死者がでる大惨事となってしまう。ノース・アメリカ航空の臨床精神医マーク・ワイスの妻子も事故に巻き込まれて命を落としてしまう。国家運輸安全委員会(National Transportation Safety Board、NTSB)の調査官ジョウ・ウォーリングフォードは事故の全容解明に動き出すが、奇妙な圧力がかかり調査が妨害されていることに気づく。一方、マスコミには、事故が仕組まれたものであることをにおわす匿名の電話はファックスが入り始める。人種差別的な言動に走る下院議員が事故機に乗っていたというのだ……。
上巻の途中まで読みましたが、やはり良くできた小説はいいですね。登場人物が多層的で、実に個性的で鮮やかに描かれています。上質なハリウッド映画を観ている気分です。視点がクルクルと変わるのですが、きちんとついて行けますし。やはり英米系文学やミステリの層の厚さはすごい。まあ、英語人口が多いのもありますし、アメリカという超大国の言語でもありますので、層の厚さという観点に加えて、邦訳される率も高いということもあると思います。インターネットの普及でますます英語が世界共通語になってきました。フランスをはじめとしたヨーロッパでは、そうしたアングロ・サクソン系文化に必要以上に傾くことを懸念する向きもあるようです。
ネット時代で、KindleやiPadがリリースされるような世の中ですし、映画やテレビドラマなどの映像文化が隆盛となる時代ですので、非英語圏の小説は実に厳しい状況でしょう。水森美苗さんの「日本語が亡びるとき」でも似たようなことが指摘されていました。この不景気で、単行本なんて売れないでしょうし、1Q84は図書館の予約で何百人待ちで、ブックオフでは長蛇の列でも、一般書店では閑古鳥ですから。
かろうじて「居眠り磐音」シリーズの佐伯泰英さんが文庫書き下ろしで、なんとか、というところでしょうか。佐伯さんは正月の番組で、「価格の安い文庫本は作家にとって武器だ」とおっしゃっていました。逆に言うと、文庫本程度の価格の本誌か売れない、ということでしょう。
音楽も厳しい時代ですが、文学にとっても厳しい時代です。