私の大好きな新国立劇場は初台にあります。新宿駅から京王新線で一駅。新宿から歩いても30分以内なので、ちょっと運動したいときは新宿から歩いたりしています。この町には私の大先輩と大後輩が住んでいらっしゃって、すばらしい限り。初台に住むのも私の夢の一つです。でも高いよなあ。あ、ドレスデンかミュンヘンに住むのも夢です。こっちはかなりハードル高いです。
で、写真は甲州街道と劇場を隔てる壁に沿って張られている階段を撮ったもの。甲州街道の上には首都高速が走っていますので、車の騒音は相当なもの。写真の左手が劇場で、右側が道路と劇場を隔てる防音壁の役割を果たしています。ここにしつらえられている階段が美しくて、昨年の夏に何枚も何枚も写真を撮りました。そのうちの一枚です。ちょっと色温度を下げました。あとは、新国の中庭に水が張られているのが美しい。これ、かなりのメンテナンスが必要なはず。定期的に水を抜いてしっかり洗わないと緑色のこけが生えますので。これも無駄といえば無駄で、どこかの仕分けで取り上げられるかもしれませんが、無駄こそ大事な場合もあるのです。
まずは、ちょっとどうしてブーイングが出たのか考えてみました。タクトを振ったダン・エッティンガーの解釈面にはあまり違和感を感じませんでした。というより、かなりゆったりとした演奏でしたし、ためるところはとことんためる感じで、ブルックナー的とも言えるゲネラル・パウゼが見られて緊張感は相当なものだったと思います。
先日ベームがバイロイトで振った「ジークフリート」を聴いたのですが、あの大時代的なテンポ・ルバートは相当なものでした。いろいろな指揮者の演奏を聴いて思うのは、そうした大時代的な、テンポをアグレッシブに速めたり遅めたり、といった演奏スタイルが復権しているのだなあ、ということ。これは10年ぐらい前から思っていることです。
エッティンガーの指揮もそうした部類に入ると思います。相当な動かしようで、時にかなりテンポを落とし、あれじゃあ、歌手や管楽器は大変だなあ、と思うこともしばしば。
で、ですね。オケがそうしたエッティンガーの意図に追随仕切れていなかった部分は多分にあったと思うのですよ。それは前回の「ジークフリート」でも感じたことです。特に管楽器のキューはかなり厳しいものがありました。
私は、気に入らないパフォーマンスについては一切書かないことで意思表示をしているつもりですが、あのカーテンコールをご報告するに当たっては、そこを乗り越えないと行けないと思いましたので、大変恐縮ながら書いている次第です。
それから、そうしたある種の疵を完全に無視できるほど、全体のパフォーマンスはすばらしかったので、幸福な経験をすることができたと思っています。ですので、私はエッティンガーにブーイングする気は全くありませんでした。
ついでに、新国の東側のオペラシティーのファサード。ミラノの記憶がよみがえります。
新国「神々の黄昏(神々のたそがれ)」については、まだまだ続きます。明日もお楽しみに。
ブーイングの原因は?─新国立劇場「神々の黄昏(神々のたそがれ)」 その3