Richard Strauss,Symphony

 小さい頃に、シュトラウスのアルプス交響曲をNHKFMのエアチェックテープで聴いていたのですが、当時で言うとSONYのHFというTypeIの品質の一番悪いテープで録ったと言うこともあり、きわめて音が悪くて楽しめませんでした。確かプレヴィンの指揮だったと思います。そんなこんなで20年もアルプス交響曲にはいいイメージを持っていなかったのですが、2,3年前にアルプス交響曲をウェブラジオで聴きまして、あれれ、こんなに凄い曲だったんだ、と感嘆し直した次第。まあ、シュトラウスのオペラが大好きになったのはこの5年以内ですので、アルプス交響曲を聴く準備が出来てきたと言うところでしょうか。

聴いているのはカラヤン盤のゴージャスな録音でして、これが実に壮大希有にして優雅なのであります。弦楽器が甘く鳴り響くと思えば、金管の咆吼が雷鳴を打ち鳴らし、ウィンドマシンがビュンビュン音を出している後ろで、パイプオルガンが剛毅な和音を響かせている。オケの表現能力を最大限に生かし切っているであろう職人芸的作曲。シュトラウスは本当に巧いと思います。まあ、巧いことと良いこととは両立しないこともままあるのですが、シュトラウスの場合はバランスよく両立できているでしょう。

この演奏、昨日から何度も何度も聞いています。これを「マクベス夫人からの逃避」と呼びます。結局「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の映像見られなかったですよ……。まあ、いろいろ理由はあるのですがいいわけはしますまい。ですが、音にはかなり親しんだはずですので、明後日の本番が楽しみです。

また今年も初夏が巡ってきましたね。山登りの季節です。私の友人達と富士山に登る計画も三年目ですが、私はまだ頂上に到達していません。今年こそはきちんと到達したいものですが、こればかりは自然相手ですので確実なことは何も言えないわけですけれど。体重が思いっきり増えていますので、これをいかに落とせるかがキーポイント。それからトレーニングもしなければ。

そう言うわけで、アルプス交響曲を聴いたと言うこともあるのです。昨年の富士登山では7合目で強烈な雷雨に見舞われましたが、アルプス交響曲の嵐の場面を聴くと、言いたいことがよく分かるのですよ。雷鳴がとどろき、稲妻が山肌を這うような経験があればこそ、アルプス交響曲の世界に少し近づけたと言えると思います。

 

Miscellaneous

 昨日の続き。ちょっと写真を載せようと思います。 

 

ガメラのように石の上に乗っかる亀。どうやって降りるのか……。

 

 

えづけに群がる鯉の大群。おどろおどろしいです……。

 

カモのいました。この写真は気持ちよさそう。

 

今朝、早起きして、ムツェンスク郡のマクベス夫人を観ようとしたら、あまりのおどろおどろしさに、朝から観られたもんじゃなかったです。この曲も場と場の間にオケの間奏曲があって、「軍人たち」とか「ヴォツェック」ににているなあ、と思いました。マリス・ヤンソンスがまだ冒頭なのにあせびっしょりになって降っている姿が鬼気迫る感じ。見終われるかなあ。

Miscellaneous

Gwも早いものでもう四日目ですか。なんだか、なんとかここまで這ってたどり着いた感じでしたが過ぎていくのも早いですね。

GWとはいえ、やることがたくさんでしたが、私のGWはこんな感じ。

  • 2日;奥さんの実家でくつろぐ
  • 3日;奥さんと隣町までウォーキング&ショッピング&図書館散策。昼ご飯は安いお寿司を。
  • 4日;朝7時から15時まで歩きづめ。ウォーキング。

昨日(4日)のウォーキングは強烈で、近くの河を下流に向かって歩くのですが、歩くにつれて生活排水が流れ込み始めた河がどんどんドブくさくなっていく感じ。川沿いだから気持ちいいかなあ、と思っていたのですが、全くそんなことはありません。これだったら、丹沢にでも出かけるんだったなあ。人がたくさんでしょうけれど。

それから、河は東京都から神奈川県に入っていくのですが、入った途端に道が悪くなって並木が途絶えてしまう。行政の違いは大きいです。

東京都はウォーキングをする人のためにトイレの案内盤があったりして実にフレンドリー。河の護岸の柵も茶色に塗装してあって落ち着いた雰囲気。川辺には桜並木が青々と茂っていて木陰を作ってくれる。これならドブ臭さも我慢できるというものです。

ところが、神奈川に入った途端に、柵は普通のフェンスで青い色。並木もないので炎天下を歩く感じ。風を遮るものがないから、ドブ臭さがどんどんわき出してくる。極めつけは、川面に浮かぶアク汁のような黄色い浮遊物が岸辺に貯まっていること。その中を鯉が泳いだりしていて、顔シカメ度5000%というところ。なぜか、アメリカミドリガメとおぼしき巨大な亀が並んでいるのには気味悪さを感じる。

フェンスから顔をつきだして川面を見ると何十匹もの鯉が集まって口をパクパクさせている。どうやら人間からえさをもらえると思っているらしい。現に、あの親子はスーパーで買ったとおぼしき食パンをちぎっては投げちぎっては投げ、という感じ。あー、鯉のテンションが上がってるのがわかる。下水処理場の排水溝からは界面活性剤のアブクが流れ込んでいるし……。

 

とかなりテンションを下げながら歩いた一日でした。

これからは山に行くことにします。
 

今朝は朝からハイティンクのワルキューレを聴いて、ジェームス・モリス氏のヴォータンが格好いいなあ、とノリノリでした。それから、気分が落ち込んだので、ショスタコの10番をバルシャイ盤で。DSCHの咆吼に癒されましたよ、マジで。

気がつけば、GWも残り1日強。明日は早起きしてムツェンスク郡のマクベス夫人を見てしまわないと。本番は10日に迫っています。

Miscellaneous

なんだか能動的に音楽を聴けていないです。反省。ワーグナーやらガランチャさんなどを聞いてはいるのですが、きちんと聞けていないです。

今今はレヴァイン盤パルジファルの冒頭部を聞いているのですが、レヴァインらしいゆったりとした良く歌わせる音作りで、録音もよろしくて、いい感じでなのですが。ねっとりとした音の波が打ち寄せる感じです。

昨日は、某鉄道会社のウォーキングツアーに行って来まして、へとへとというところ。3時間半ばかり歩いたのですが、先を急ぎすぎて休みを取らなかったのが痛かったです。一晩寝てもちっとも疲れが取れません。やはり体は正直です。 うちの会社は幸いにもGWはカレンダーどおり休ませてくれそうです。

明後日からの5連休がGW本番。予定ではショスタコの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を見る予定。それからブーレーズの「リング」も届いたので「ワルキューレ」あたりから観はじめる予定。体がなまっているので、1日はウォーキングにあてたいと思っていますがどうなるか、です。

Opera

5月の新国立劇場は「ムツェンスク郡のマクベス夫人」です。

かなり前に書いたことですが、私は声楽付きの音楽を対訳を読みながら聴くことが少なくて、反省している次第。声楽付きの音楽の歌は、音楽の一部となっていまして、意味が分からなくてもさしあたりは気にならないのです。これは小学校の頃から変わらないです。ただ七年前にオペラを聴き始めてからは、さすがにあらすじが分からないと何のことやら、と言うところですので、対訳を買ったり、ブックレットを読み込んだりしています。最近のオペラ公演では字幕が出ますので、それも一助です。

DVDを見るまとまった時間をなかなかとれないのも悩みです。我が家では食事時に撮りためたビデオを見たりしていますが、字幕を読んでいると食事がとれませんので、オペラDVDを見る時間は勢い限られてしまいます。

さて、そんな感じですが、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は一ヶ月ほど前から徐徐に聞き込み始めまして、途中でリング熱に浮かされたりもしましたが、今週末にかけてまた少しずつ聴いていきた感じです。 中学生の頃にショスタコの1番を聴いて、マジですか! とおどろいてからもう四半世紀ちかいですが、その間に、主な交響曲は聴きましたがまだ穴があります……。まだ聞き込み足りないですねえ。「ムツェンスク郡」を聴いていると、そうした交響曲の断片が聞こえてきて実に面白いです。10番の後半楽章の皮肉じみた静謐さとか、13番の苦悩に満ちたバスバリトンなどなど。

聴いている音源は、マリス・ヤンソンスが振っているDVD。まだ映像は見ていなくて、連休に見る予定なのですが、映像はおそらく18禁でしょう。 本当は、先週のオペラトークに行きたかったのですが、疲れる勤め人には厳しいです。もっと体力つけないと。

Opera,Richard Wagner

 このところはジークフリートばかり聴いています。だんだんと面白くなってきました。白眉はやっぱり第三幕最終部で、ここばかり飽きもせずに聴いています。

そもそも、ジークフリートとブリュンヒルデの関係は恐ろしい。

無垢な世間ずれしていない奥手なジークフリートが初めて出会う女性に籠絡されてしまうという図式。ある種怖さをも感じてしまう。ブリュンヒルデは、ジークフリートのことをお見通しな年上女性。ほとんど親子ぐらいの歳の差なのに、ジークフリートをものにしてしまう。うーむ、よく考えると怖いです。

まあ、眠っている間は年をとらない、冷凍睡眠的な(火の中で眠っているにしても)状態なのかもしれませんので、歳の差はそこで解決でしょうか。

もっともブリュンヒルデもそれまでは神々の仲間として世間ずれした生活をしていたわけですので、世間知らずという意味ではジークフリートと同じ。だから二人ともハーゲンにしてやられてしまうという図式。そういえば、中学校の先生に「酒やタバコをやって、ある程度毒を取らないと、毒に耐えられないのである。毒をもって毒を制せ」なんていわれたのを思い出しました。二人とも毒っ気が足らないです。だからこそ、神話になるのでしょうけれど。

男が現れて眠りから女を救い出すという構造は、童話の世界からのおきまりごとです。眠りの森の美女とかそういう感じ。逆のパターンもあって、カエルに変えられた王子にキスすることで魔法が解けて王子が救い出され、結ばれるみたいな図式もありますね。

なにはともあれ、ブーレーズの指環が観たいです。

 

Opera,Richard Wagner

ヤバイ。へたばりそう。

以上独り言。

さて、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の予習はそっちのけで、ハイティンクのリングを聞き続けています。なんだか面白いのです。録音が良いのはともかく、メリハリがあって、旋律がしみ込んでくる感じです。そんなに奇をてらって何かをやっているというわけではないと思いますが、何が違うのでしょう。ハイティンクの指揮を「抑制された」という表現で説明する文章を読んだことがありますが、エッティンガーのように饒舌にリングを語るのではなく、炉辺で話を繰り出すような静謐なイメージとでも言いましょうか(おそらくマーラーはエッティンガーのような指揮をしたと思います)。それでいて、意外とスタイリッシュで光り輝く部分も現れるのです。

ところで、パトリス・シェローがバイロイトで演出したリングを見たくてしかたがありません。指揮はブーレーズ。産業革命以降の欧州を舞台にした演出なのだそうですが、新国のプログラムに写真が載っていて、それに引きずり込まれました。ちょうそファーゾルトとファフナーがフライアを連れて行くシーンなのですが、リングの世界観にまったく違和感がない感じ。一枚写真を見ただけでこれですので、きっといいんだろうなあ。惜しいのは、日本語字幕版がないこと。昔はあったのでしょうか。まあ、英語の勉強と称して、英語字幕で観てみましょうか。あるいはドイツ語で。

Opera

この一週間は充実した毎日、とでも言うしかありません。平日はなかなか時間がとれないです。もっぱら通勤時間にジークフリートを聴いています。ジークフリートは二幕まではほとんど男声ばかり。鳥の声は女声ですが。ほとんど男子校的なのりで進むのですが、三幕にエルダが登場して、少し花を添えてくれますけれど、圧倒的なのは目覚めたブリュンヒルデとジークフリートの出逢い以降のところ。圧倒的高まりに感服。トリスタンの第二幕を思い出します。音楽的もようやくと分かり始めたというところでして、ワクワクしますね。

今朝、HMVのネットショップで、ブーレーズとレヴァインのリングDVDを買おうかと相当迷いまして、カートに入れるまでしたのですが、踏ん切れず。両者とも1万円を超えますし、DVDを見る時間はあまりないですのでかなり悩みます。っつうか、iPodに入れればいいのかなあ。

それにしてもジークフリートの無邪気さといったら。狡知に長けたハーゲンの術中にはまるのもうなずけます。ヴォータンの孫だというのに……。神々のコントロールを避けて、指環がアルベリヒの手中に収まらぬよう、自在に動くべき英雄なのですけれど。英雄とは邪気を持たぬ純粋な心の持ち主でなければならないのでしょうかね。そう言う意味ではジークムントも無邪気な英雄ですね。無邪気な英雄といえば、パルジファルもそうですね。

ここでワーグナーが書いた英雄は、神々のコントロールだけではなく、神々の意図を象徴する世間体とか共同体といった価値をも逸脱しているはず。ジークムントとジークリンデが駆け落ちしたのもそうだし、それを見てフリッカが怒るのは神々の意思=共同体倫理に反しているからともとれます。それは革命家としてのワーグナーとも重なりますし、不倫の恋を経験したワーグナーとも重なります。

そもそも芸術家はある種児戯的な物事に価値を置くところから始めます。常に世間と対立しなければならないということ。厳しい立場です。給与所得者とは違う厳しい道を歩いているというところでしょうか。 まあ、どの道も茨の道で、後ろからは追ってが差し向けられていて、走らないと死んでしまう。いや、死ねたほうがマシなくらい。追っ手は、我々を辱めたり、死よりも辛い境涯の輪を我々にかけようとしているのですから。

Opera,Richard Wagner

ワルキューレスペシャルということで、ドイツのプレッツェルが売っていましたので買いました。これはミュンヘンなんかだとホテルの朝食の定番なのですが、パンの周りに白い塩の結晶がついていて、塩味が効いてとても美味しいのです。すこし塩辛いのですが。新国で売っていたこちらは、決勝などはついておらず、周りに薄く塩味がついているだけですので、日本人の口にもよく合います。私は塩辛いほうも好きですけれど。

今日は演出面について。ネタバレあります。

実は色々面白くて、二幕冒頭でブリュンヒルデが子供用の木馬に乗って登場したのには失笑気味。でも、ブリュンヒルデもやっぱりいまいちだったらしく、木馬から降りると、えいとばかりに蹴飛ばして、木馬はするすると舞台袖に消えていきました。

二幕ではもうひとつ面白いネタがあって、ジークムントの眼前にフンディングが登場する場面。舞台には平べったいほとんど屋根だけの小さな小屋がしつらえてあるのですが、天上から伸びる赤い巨大な矢印がその小屋を指差しています。そこにはHundings Hütteと書いてあります(たしかそうだと思う)。意味的にはフンディングの家というとも取れますが、むしろ僕は犬小屋ととってしまい、苦笑。確かにあの大きさだと犬小屋というほうがしっくりきます。フンディングへの醒めた見方です。フンディングは既成の価値観でしか行動できない人物だとしたら、既成に尾を振る「犬」なわけですから。フンディングの名前の由来もそこから来ているそうですし。もちろん、Hundはドイツ語で犬で、Hütteは小屋という意味。さらにHundehütteだと犬小屋という意味。Hundings Hütteを「犬小屋」と捉えてもあながち外れていないと思います。

舞台機構も圧巻でして、三幕の救急救命センターが舞台奥へとすれ下がっていくのですが、すごい奥行きで、新国立劇場の舞台の奥行きがあんなにも巨大だとは、と思った次第。今度はしたから巨大な木馬、これにはGraneと書いてあって、ブリュンヒルデの馬の名前なわけですが、それが持ち上がってくる。息を呑みました。

それからもうひとつ。ブリュンヒルデが岩山で眠りに付き、火で囲まれるシーン。私としては、赤い照明効果が火をあらわしているのだろうな、とぐらいにしか思っていなかったのです。ブリュンヒルデは舞台中央のゆがんだ金属製の巨大なベッドに寝かされているだけですので。ところが、あっという間に、ローゲの炎に包まれる。本当に火が出たのですよ! マジですか! という感じ。っつうか、横たわっているブリュンヒルデのネーメットさんは熱くないのかな、と真剣に心配しました。もしかしたら人形なのかもしれないな、などと思いつつ。

音楽ももちろんすばらしかったのですが、今回は演出も楽しめた感じです。やっぱり「ラインの黄金」にあまりいい印象をもてなかったのは僕の責任なのだな、と痛感です。

ちなみに、私の席は、2階R3列1番。舞台に向かって右側のテラス席の前のほうです。そこですと、舞台右奥は死角になってしまい何が起きているのかわかりませんでしたが、舞台に近くて迫力満点でして、大満足でした。いつもは2階中央なのですが、久々のテラス席はなかなかいいなあ、と思いました。この席からだと、ピットの様子も良く見えて、打楽器奏者が自分の出番になると姿を現して、ひとしきりたたいたあと、譜面を次の演奏場所までめくって姿を消していくのが見えたり、ホルンが10人弱ぐらいいて、多いなあ、とか、意外とバスクラリネットがいくつもおいしい旋律を吹いていて、サックス経験者の僕としてはなかなか興味深かったり。 オケに入りたかったなあ、といまさらながらに思います。オーボエがイングリッシュホルンを吹きたかったですねえ……。難しいでしょうし、楽器も高いと思いますけれど……。

Opera,Richard Wagner

私も行ってまいりましたよ、新国立劇場の「ワルキューレ」。5月12日のマチネ。とはいえ、終わったのは19時半。実に濃密な5時間半でして、最初からのめりこんで時を経つのを忘れました。こんなに濃密にオペラ時間をすごせたのは久しぶりかも。それほど僕にとってすばらしい経験でした。

「ラインの黄金」との時はここまでのめりこめなかったわけです。原因のひとつは体調管理に失敗したということ、もうひとつは、やっぱり僕は「ワルキューレ」と「神々の黄昏」がすきなんですね。「ラインの黄金」の聞き込みが足らないということでしょう。

第一幕、のっけからジークムントのエンドリク・ヴェトリッヒさんの声にやられてしまう。雄雄しくて鋭利な声で少しく逡巡を含んだ表情も併せ持つ声。ジークムントの強さと繊細さにぴったりです。ジークリンデのマルティーナ・セラフィンさん、本当にすばらしくて、私は涙が止まりませんでした。パワーもあるし安定している。それだけですごいのに、哀切さをも持ち合わす表現力。「ばらの騎士」の元帥夫人もレパートリーだとか。うなずけます。 この二人が第一幕で切々と不倫と近親愛という二重のタブーを犯す禁じられた愛へとひた走るのですからたまりません。

これはもう「トリスタンとイゾルデ」よりも数十倍も苦しいですよ。トリスタンとイゾルデのように許されることもなく、死を分かち合うこともできない。ジークムントとジークリンデは繋がっているのに繋がりすぎていて離れている。これはもう物理的障壁に近くて、時間空間を越えようとするぐらい大変なこと。因習の壁、社会の壁、倫理の壁に取り囲まれてぎゅうぎゅうと押しつぶされていく感じ。 そういう意味では、フリッカやグンディングは本当に常識人で、ある意味我々の持つ社会的な部分の映し鏡だったりします。だからこそなおさら、ジークムントとジークリンデの愛情にほだされてしまう。それは我々の持つ反社会的な部分の映し鏡。鏡と鏡の間に挟まれて苦しむのがヴォータンで、実はヴォータンが我々の立場に近いかも。自由でいて不自由という身分は我々の置かれている立場と良く似ている。だから、第二幕のヴォータンの苦悩の場面でも聞いているのが本当に苦しかったです。

フンディングを歌ったクルト・リドルさんは、2007年のドレスデンの「ばらの騎士」でオックス男爵でしたが、あのときよりも強い印象。フンディングの威張り腐る様子が実に巧い。それでいて体制に逆らえない小心さのようなものも感じられました。声も強力で、誰よりも力強かったのではないかと。それから、振り付けが実に似合っていて良かったです。

ブリュンヒルデのユディット・ネーメットさんも強力でした。プログラムのキャスト紹介の写真があまりに冴えてなくて、一瞬ひいたのですが(すいません)、実際に舞台に出てこられた姿はブリュンヒルデの雄雄しい姿を体現しておられて実に安心できたのです。終始安定していましたね。良かったです。

エッティンガーさんの指揮ですが、これもすばらしかったです。リング全体を知悉していてコントロール下に収めています。特に印象的だったのが、リタルダントやゲネラルパウゼを拡大して見せてくれて、あまりの緊張感に震えてしまう感じ。

ちょっと一日じゃ書ききれないです。明日に続くということで。