昨日、いろんな方々と会って、日常から離れたものに接したので、少し刺激的でした。今日は、少し泳いで、自転車を1時間ばかり漕いでリフレッシュしました。
明日は仕事関連の集まり。明後日は仕事場の新規配属の方への講習の講師をやります。準備はイマイチ。オーバーワーク気味。だだ、オーバーワークかどうかは、人それぞれ。客観的数値化できないの難しいところ。まあ、また明日から頑張ります。
みなさま、おやすみなさい。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
昨日、いろんな方々と会って、日常から離れたものに接したので、少し刺激的でした。今日は、少し泳いで、自転車を1時間ばかり漕いでリフレッシュしました。
明日は仕事関連の集まり。明後日は仕事場の新規配属の方への講習の講師をやります。準備はイマイチ。オーバーワーク気味。だだ、オーバーワークかどうかは、人それぞれ。客観的数値化できないの難しいところ。まあ、また明日から頑張ります。
みなさま、おやすみなさい。
なんだかほんとうにつれづれなエントリー。
今日、仕事場を出ると、潮の匂いが漂っていました。
たしかに、この時期な東京は、山手線の中の区域まで潮の匂いが入りこんでくることがありました。大学のころにもやはりそうした経験をしたことがあります。東京が海浜の街だということを感じさせます。
東京に来てからそろそろ四半世紀経ちます。そのうち5年ほどは神奈川西部に住んでいたこともありますが、それ以外は東京住まい。最初の頃は都心に近いところに住んでいましたが、それ以外は郊外暮らし。そのほうが気が休まるようになってきました。
東京に来る前は、大阪にいたこともあれば、九州にいたこともあります。東京の郊外になんねんかすんだこともありました。そんななかで、やはり、いちばん肌に合うのは、両親の故郷の感覚であるとか、両親の子供の頃の風景のようなものなのかも、と思います。結局原風景というのは、両親の子供時代の思い出話においてあるものだからではないか、と思うのです。もちろん、私にとっては、という限定付きではあります。
長い間親しんだものは、それだけで価値があります。昔からの友人や、昔から聞いていた音楽というものもやはりそうです。
それがこちら。
Brahms: Symphony no. 1; Song of the Fates
ブラームスって、本当に純粋なひとだったのではないか、と思います。ロマンはの良き時代、というところでしょうか。。
こうした音楽も昔から聞いているもの。新しいものも取り込みながら、旧きよき友人のような音楽も大事にしていきたいです。
きょうはとりいそぎ。おやすみなさい。
今日は、「はじめてのバーンスタイン」というプレイリストを。AppleMusic のレコメンドに現れましたので、聴いてみました。
プレイリストの2曲目が《田園》だったのですが、こらはさすがに懐かしいものでした。懐かしさというより、何か過去へと引き戻される感覚でした。
これも以前書いたかもしれませんが、また書きます。
この音源は、私が音楽を聴き始めた80年代半ばに、父が録音していたカセットテープで何度も何度も聴いたものでした。それは、NHK FMの「名曲の楽しみ」をエアチェックしたものでした。カセットテープは、最初の出だしが少しかけたもので、テープのたるみを拾って、音がユラユラと揺れるところから始まっていたはずです。当時の私の理解では、交響曲の楽章というものは、必ず途切れるものだと思っていましたので、なぜ楽章数が足らないのか悩んだりしたものです。
曲が終わると、吉田秀和のアナウンスが入りました。
「いまのは、ま、言うまでもないんですが、ベートーヴェンのパストラール。レナード・バーンスタイン指揮の、ウィーンフィルハーモニー楽団の演奏でした」
という感じでした。たしか、パストラール、と言っていたと思います。その後、バーンスタインらしい「恍惚とした感じ」と、この演奏を表して、「では、まだ時間があるようですので、もう一度最初から聴いてみましょう」という感じで、また第一楽章がオンエアされる、という感じでした。
小学生の私には、この「恍惚」という言葉がよくわからなかったのですが、おそらく、その後の「恍惚」の理解においては、この演奏がひとつの要素を占めていたのだと思います。
それにしても、今日、この演奏を聴いた時、引き戻された感覚というのは、これが、プルーストのいうマドレーヌ体験のようなものではないか、と思いました。演奏の機微のようなもの身体が覚えていて、まったく違和感を感じません。デフォルト音源です。こういう、演奏がフィットするという感覚は、おそらくは《田園》の他の演奏音源を聴いたために、逆に強く意識するようになったものだと思います、恍惚、というのは置いておいて、たおやかで柔らかく、絶妙な起伏を持った演奏だのあらためて思います。あらためてすごい演奏を小さい頃から聴いていたのだなあ、と思いました。もっともらこの音源を聴いていたから、この音源が素晴らしいと思える、ということもあるのだとは思います。この音源によって耳が形成された、ということです。
まあ、繰り返しになりますが、AppleMusicのプレイリストはいいですね。思いもよらない曲を聴いて、今日のようなセレンディピティが起こります。
さて、今日は、ギリギリまで働いたのですが、なぜか心が落ち着くのです。ざっと、VBAでデータ処理のスクリプトを書いたところ、思いのほか上手く動いて、気分が良かったのかも。
明日は早出です。起きられるか?
ではおやすみなさい。グーテナハトです。
今日は、早めに帰宅。あえて。
仕事場でやることはたくさんあるのですが、やむなく。のこって働いたほうが気持ち的には落ち着くのですが。
それでも、定時より後で、仕事場主催の懇親会に参加する場合の帰宅時間より遅い時間なので、たまにはいいかな、と。
でも、罪悪感を感じてしまうのがよくわからないのです。契約された時間以降に帰宅しているので、なんら問題はないわけです。
ただ、仕事は溢れていて、どんなにスピードアップしても契約された時間内で終わらない(当たり前。仕事量は常に労働者の能力を上回るものだから)。裁量で明日以降の〆切にあわせて動けばよい。ただ、タイトなので、長い経験のなかで思うに、少しリスクが高まっている状況。もっとスピードアップして片付けないといけない(そのためには、個人的にスピードアップするか、仕事を減らすかしかない)。
まあ、ある程度裁量で動けるので、比較的ありがたい環境なのかも、と(めちゃ気を使いますが)。ここまで来るのも大変で、運もあったのかも。ただ、先はない。ありがたいと思うから、罪悪感を感じるのか、などとも思います。
あるいは、それは罪悪感などではなく単に不安感だけなのか、とも思います。早く帰ることで、リスクを負っている不安感を罪悪感と捉えているという感じ。
なかなかに難しい問題です。ともかく明日は長めに働かないとタスクがはけなさそうです。
仕事の話は難しいので、この辺りで。
今日は久々にドビュッシー。AppleMusicのプレイリストで楽しみました。
https://itunes.apple.com/jp/playlist/dobyusshito-jianru-meng/idpl.a4e4987e6d564342bfbf5b7b5834ca3d
それではみなさま、おやすみなさい。
PCを手に入れてから今年で21年。文章を書くツールについては、遍歴を重ねてきましたが、また一つ大きな宝物を手に入れる時期が来たようです。
Macの文書作成ツールとして有名なScrivenerにiOS版が登場しそうなのです。来月手に入れることができるかもしれません。
Scrivener for iOS: It’s Time to Talk
私は、Scrivenerを使いたいがためにMacに乗り換えたと言っても過言ではありません(Omnifocusを使いたかったのももう一つの理由です)。
Scrivenerは普通の物書きをするにはオーバースペックともいうべき多彩な機能を持っていて、アメリカでは多くの小説家に愛されているようです。アウトラインプロセッサのように、階層構造で文章の構成を考えられたり、目標文字数をグラフで表すことができたり、前述のとおりオーバースペック気味でありながらも、このツールのおかげで、個人的には幾つもの難関をくぐり抜けることができました。例えば、仕事場で書く必要があった論文の骨子をこのツールで作ったことで、構成や文字数配分を整理することができまして、行き詰まりを脱した、ということがありました。
このツール、もちろんMacで使うしかないのですが(Windows版もありますが、Macの方がデザイン的に優れていたような記憶があります)、仕事時間が長くて、なかなか家で時間が取れない身にとっては、使う機会が減ってしまっていたのです。
iOS版が出ることで、おそらくはそうした問題が幾らか解決するのではないか、と思っています。Dropboxを使ったSyncを前提にしているようですが、iOSで外出先で書いて、時間のあるときにMacで整える、というような使い方ができるようになるはずです。
これで、今まで以上に物書きが楽になるのでは、と願っています。
最近、外出中に自分のやるべきことを済まさなければならない機会が多く、プログラミングなどもiOSでPythonの開発ができるPythonistaというツールを使ったりしています。一層、場所に縛られずに仕事を進めることができそうです。
反面、かつてのように、電車の中では、本を読むぐらいしかやることがなかったがゆえに、読書がはかどった、という事実もあります。どちらが良かったのか。贅沢な話ではあります。
ちと体がサインを出している模様。気をつけないと。。
それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
最近、近所を自転車で走っている話は何度か書きました。
今年の冬から、春となり、夏来る、という感じで、同じ場所でも、風景は本当に変わります。
冬枯れの草原が、春になって花が咲き乱れ(本当に咲き乱れるのです)、桜が舞い散り、若葉に満ちるわけですが、最近は、その若葉も色濃くなり、青年の雄々しさを持つようになりました。
それどころか、早咲きのひまわりが、先週はその顔を空へ向けていたのが、今週になると、まるで老年のようにこうべを垂れて、勢いをうしない、人生の晩秋を感じさせたりもします。
あるいは、草原にも立ち枯れた草がすでに目立ち始めました。一方で蝉の鳴き声を聞いたりすると、また新たなサイクルが始まったということも思います。
ともあれ、同じ風景の中に、こうした違いを見出すということは、まるで、同曲異演を楽しむかのような感覚があります。
昨日も書いたように、シュトラウスの最後の四つの歌を、かつては、アンネ・トモワ=シントウで聴いて感激していたのが、昨日はジェシー・ノーマンの声で違う感動を感じる、といったような、そういう楽しみです。
それは、まるで縦糸と横糸を組み合わせるようなものでしょう。
機織りで長く張られた縦糸に横糸を通すと、絢爛な布地が出来上がるかのような。曲をたくさん聴くのが縦糸なら、様々な演奏を楽しむのが横糸。あるいは色々な場所に旅するのが縦糸だとすれば、同じところにとどまって季節の移り変わりを楽しむのが横糸です。
仕事も同じらしく、本来業務と言われる、収益を上げる仕事ばかりやっていてもうまくいかず、周辺事項や視点を変えた仕事も織り込まないといけないようです。
縦糸だけ伸ばしても本質は掴めなさそうです。質料と形相の関係に似ているような気もします。
ただですね、それでもやはり縦糸を伸ばすことに憧れます。理論上は無限に伸びる縦糸ですので。新しい楽曲を聴きたいし、新しい土地にも行きたいですね。それがなくなった時、初めて大人になるということなのかも、と思いました。
今日はこちら。やはりジェシー・ノーマンの(ナクソス島のアリアドネ》。
クルト・マズアの指揮はゆったりとしたもので、ジェシー・ノーマンの深みを十分に引き出しているように思えます。80年代の演奏ですが、冷戦のさなかにアメリカ人のノーマンがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と共演するというのは興味深いです。しかし、こう言う演奏の違いがわかるようになって少し嬉しい反面、寂しさも感じることもあります。もっと新しい音楽、つまり縦糸を伸ばすことをやってみたいなあ、と思います。
Strauss, R.: Ariadne auf Naxos (2 CDs)
休日。随分早くに目が覚めたのですが、なにかいい感じの夢で目が覚めて、気分が良かったです。今日、近所の市民センターにいたところ、広場に生い茂る木々から蝉の声が聞こえました。まだ梅雨あけもしておらず、6月もまだすぎませんが、ひたひたと夏が迫っています。ことしも猛暑だそうです。どうやって過ごそうか、という感じです。
そんな初夏に聴いたのはこちら。すこし季節にはあいませんが、ジェシー・ノーマンの歌うリヒャルト・シュトラウスの歌曲集です。
昨日聴いた「はじめてのジェシー・ノーマン」というプレイリストには入っていた「Morgen」という歌曲が入ったアルバムで、1983年にクルト・マズアがライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団と一緒に録音したもののようです。「四つの最後の歌」がメインディッシュですね。33年前のアルバム。あの頃はまだ東ドイツがあってホーネッカーがいました。
メゾ・ソプラノような深みで歌われると、「四つの最後の歌」なども、重心がひくくなり、随分と落ち着いた味わいになります。たしかに、人生の晩秋の諦観とした静かな気分を想像させるに事欠くことはありません。この演奏を聞きながら、太陽の光を浴びながら死に至る場面などを想像してしまいます。この曲を聴いて急に後ろに引っ張られるように頭から血流が失われていく感覚。それはまるでヴィスコンティの「ヴェニスに死す」から、毒気のようなものをぬいた、常識的で大人な場面。マーラーの「アダージェット」よりも安らぎにみちている気もします。そのように人生を閉じれるように生きれるといいのですが。もちろん自分の努力だけでそれはなし得るものではないですね。世界や国、社会、あるいは自然や災害がどうなるかで簡単にどうとでもなるものです。昨日の常識は明日の非常識。そういう世界で、安らぎを得るのは、ただひたすら、偶然的なものに対する願いと祈りと感謝でしかないのかも、と思います。人生謙虚に全力で、というところですかね。
ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。
どうしても学校教育で教わる歴史というものは、人類が少しずつ進歩して、現在があって、そしてなお進歩を続けていく、という考え方になっています。私が小学校の頃、大人になると宇宙旅行が普通になっていて、宇宙ステーションや月面基地があって、という想像をしていました。これは、おそらくは今の40代や50代の方ならそうなのだと思います。
実際には、そううまくいきませんし、あるいは想像しない便利な時代になったとも言えます。ドラえもんのひみつ道具も幾つかは実現しています。
とはいえ、やはりなんだかおかしな方向に進んでいる向きもあって、今回のイギリスのEU離脱もそうしたことなのかも、と思います。もちろん私が「おかしな」と言っていること自体、学校教育で教わった人類の進歩とは合わない方向、という意味です。学校教育では、漠然と、戦争を乗り越えた世界が、共に協力して発展していくという、いささか素朴な世界観のようなものがあった気がしますから。
今回のイギリスのEU離脱の件もそうですし、アメリカ大統領選挙もそうかもしれませんが、エリートが政治を担うという考え方に対するある種の批判のようなものにも感じました。日経新聞で識者の方がコメントを寄せていて、同感でした。少し引用します。
こうした急進政党が欧州で勢力を伸ばしている背景には、大衆のエリート層、エスタブリッシュメント(支配階級)に対する反発がある。有権者は既存の政党が自らの声を代弁していないと感じている。それゆえ、極右や極左政党はエリート層を非難する同じ方向に近づきつつある。
仏国際関係研究所特別顧問 ドミニク・モイジ氏
離脱派と残留派の対立は、米大統領選で候補指名を確実にした民主党のヒラリー・クリントン、共和党のドナルド・トランプ両氏の支持者間の分断に似ており、多くの先進国に共通して見られる。近代的なコスモポリタン(世界主義)の社会が心地よいと考える人々と、伝統的な地域の価値観が脅かされていると感じる人々との間の深い溝だ。
英王立国際問題研究所 主任研究員 トーマス・レインズ氏
おそらくは、近代というものは、18世紀からの啓蒙の時代があって、世界市民の理想(あくまで欧州視点のものとも言えますが)、があり、フランス革命が成立し、反動や社会主義革命、二つの大戦と冷戦を乗り越えここにたどり着いた、ということなのでしょうか。ポストモダンという言葉がありましたが、アンチモダン、という言葉をふと思いついてしまいました(ニーチェのように)。
啓蒙というのはエリートが引っ張っていく世界で、エリートはノブレス・オブリージュの元に引っ張っているはずだったのが、実はそうではなかったということが、インターネットで市民が情報に直接アクセスできるようになったり、スノーデンの暴露やパナマ文書の流出などで疑われるようになってしまった、ということなのでしょう。もちろん、それは本当かどうかはわかりませんが、可能性だけでも流布してしまうと、ハレーションは大きくなります。。啓蒙がトリガーとなった近代自体が疑われてしまいます。
先日読んだ「ワーク・シフト」という本にも、政府や大企業が信頼を失い続ける未来が描かれていました。
ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉
エリートもそうですし、我々市民もそうですが、理性的な判断ができるようになるといいのですが、理性自体が近代の所産ですので、近代が終わるようにも見える昨今においては、そういう「XXできるようになるといい」という言い方すらできないのかもしれないです。
今日はこちら。いやあ、ジェシー・ノーマンのイゾルデは、船の上から真っ青な海の底を覗き込む時のように、ぐいと引き込まれてしまう恐ろしさがありました。そういえば、ワーグナーもやはり近代の担い手だった時代もありました。
仕事場から港が見えます。晴海埠頭が。かなり遠くではありますが。大型客船が泊まっていたり、南極観測船しらせが泊まっていたりしたこともありました。
今日は、私の勝手な想像では気象庁か水産庁の調査船が泊まっているように見えました。あまり大きくない船でしたが、きっと日本近海か、外洋か乗り出していく船です。内航船ではありません。
ふと思ったのは、勝手ながらも、その船の船長が感じる自由のようなもの。補給さえきちんとできれば、世界中のどこへでも理論上いくことができるという自由。これは、本当にすごいことではないか、と。
これ、MacなりPCなりでツールが揃い、なんでも作れる状況になるような感覚と似ているなあ、と。無限の可能性を得たと感じるあの瞬間と同じ。きっと東京の晴海埠頭からサンフランシスコでも、サンディエゴでも、あるいはナポリでもアルハンゲリスクでも、ケープタウンでもどこでも行けるわけですから。
ただ、現実はそうはいかないです。船もやはり船主の意向次第。ツールが揃っても、すぐに何かができるわけではなく、時間や技術の壁に当たるわけです。
ただ、それでもなお、埠頭に接岸し、船橋から外洋を見やったときに感じるだろう自由と束縛の感覚は、酢いいものでありながらも、酔いしれるものもあるのかもしれず、酔いが醒めるのをわかっていながらなおも酔うということなんだと思います。とことん酔って、その先に何か誰も手にしたことのないものがあると信じたいものです。往々にして、酔いが覚めて良い夢だったということになりかねませんから。
今日はこちら。
シュトラウスの若き日の作品から「ツァラトゥストラはかく語りき」を。この絢爛でありながら皮肉に満ちた音楽は、ダブルスピークのような解釈多様性を持っている気がします。私は、物事全てを字義通り捉えることができません。全てが逆の意味を含み得ることがわかっているからです。そうであっても、意味が正の意味を持つか負の意味を持つのかはフィフティフィフティです。この曲を聴いて、それが本当か嘘かはさておき、少なくとも半分は極度に美しいのだから、それだけでいいのではないでしょうか。
私が若くて若くて、つまりまだ2歳だか3歳だった頃、この曲が大好きだったとのこと。当時はまだ無限の可能性があって、世界に乗り出す可能性もありました。理論的には。つまり、大洋へと出帆する船と同じだったというわけです。
今はどうか。願わくば、大洋を乗り越えている船のように生きているといいたいものですが、はたしてどうか。大洋しか知らなければ、それが太陽かどうかはわからない。あるいは、大洋でないと思っても、それが大洋かどうかもわからない。そんなところでしょうか。
結局、自由かどうかは、わからないということ。あらゆるものはどうとでも取れる。そういうことなんでしょう。
ではみなさま、よい週末を。グーテナハトです、
うーん、書いた文章が全部消えてしまった。
気を取り直して。思い出しながら書きます。
昨日はシュトラウス。シュトラウスの大人の知恵が好きです。《エレクトラ》で前衛をあきらめ、《ばらの騎士》でモーツァルトに回帰する大人の知恵。
作品の登場人物も大人ばかり。若い恋人をあきらめる《ばらの騎士》元帥夫人、二人の求婚者のどちらを選ぶか結論を出さない《カプリッチョ》の伯爵夫人マドレーヌ。
音楽的にも、美しいながらも不協和音や変拍子に溢れています。綺麗なんだけど、肩透かしのようにその旋律はどこかに過ぎ去ってしまったり。
結局世の中を変えるのはそういう大人の知恵なんだろうなあ、と。
辻邦生のテーマは「性急な改革の失敗」です。結局、若さで押し切ることは、行き詰まるだけです。時間がかかっても、じわりと改革をする知恵が勝つのかもしれません。
きっと今も、目立たないようにひっそりと、あるいはまったく別物に姿を変えてわからないように何かの改革が動いているのかも、と思います。その改革がよいことでありますように、と願います。
ですので、世の中は直球勝負では勝てません。変化球や、ときに四球を与えながら買っていくものなのかも。がゆえに、身の回りでもいろいろなことが起きますね。
はしごをはずされる感覚、というのもその一つですまあ、慣れていますので、普通に対処できてはいますが、少しばかりの寂しさは避けようはないですね。
先日読んだ本に、本来人間は種の保存のために助け合うことに快感を覚える本能を持つ、といったようなことが書いてありましたが、その逆もあるわけで、そうだとすると、それに寂しさを覚えるのも理性外の本能のようなもんなのでしょうか。
で、今日は、「ダナエの愛」を。絢爛で巨大な音楽。昨年、二期会の公演に出かけましたが、本当に楽しく充実したしたものでした。オペラは素晴らしいものですが、気づくとこの一年見に行けていないです。また行ける日が来るといいなあ、と思います。
ではおやすみなさい。グーテナハトです。