辻邦生「嵯峨野明月記」その7



辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記
辻 邦生 (2004/08)
新潮社

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与三次郎が言った絵というのは、ただ心の震えを一方的に吐きつくすというだけではなく、それが同時に、そのまま見る人の心に浸みわたってゆくものでなければならなかった。そうした心の震えを絵の中に湛えておくことを、描く者も望み、見る者も望むゆえにはじめてそこに成り立つのが、与三次郎の言う絵でなければならなかった。いや、絵というものはもともとそうしたものでなければならないのだ、と、おれは思わずつぶやいたものだ。

辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、239頁
美の生成者が産出する美的価値は、常に普遍的であることを要求されると言うことだと思います。これは「小説への序章」においても取り上げられている主題のひとつです。以下引用してみます。
主体は、「世界」のなかに置かれているが、同時に世界を「世界」ならしめている根拠を自己のうちに持っていることも直観的に了解している。しかしこの根拠とは、それが基準となり、そこから発進するという意味ではなく、「世界」に対して、自己が開かれ、「世界」を自己の意味内容としているという意味である。(中略)ここで重要なことは、直観そのものが全体性をとらえているということであり、したがってその直観内容を行動、言語によって分節する場合、それはすでにこの統一的な全体によって保証されているということである。

辻邦生『小説への序章』河出書房新社、1976、174頁
宗達は、狩野光徳のような経験を元にする帰納法的方法では全体の直観が不可能であると指摘していました。そうではなく、宗達が選んだのは、自分の中にある印象に基づいて絵を描くと言うことだったのです。これが「「世界」を自己の意味内容としている」と言えるのではないでしょうか。帰納法に対して言えば演繹的方法だと思います。
もちろん、この方法は科学的な方法ではありません。普遍的妥当性も客観的必然性を持つことは出来ないでしょう。しかし、芸術において、芸術の産出者は常に「世界」を自己の中に持っているというある種の気概、要求を必要とするのです。それが他者において受け容れられるべく世界とつながっているということを常に求めなければならないのです。


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