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2007

![]() | 辻邦生全集〈3巻〉天草の雅歌・嵯峨野明月記 辻 邦生 (2004/08) 新潮社 この商品の詳細を見る |
不意に、何とも言い難い喜悦の念に捉えられ私はそれがどこから生まれたのか、思わず自分の中をのぞき込んだ。(中略)私は庭に降りて清水まで歩き、それを手にうけ、藤の花を仰ぎ、ふたたび濡縁にあがった。そのとき、また、強い光のような歓喜が、甘美に私を指しつらぬいていった。私は、はっとして、足を濡縁にかけたまま、身体をとめた。それは以前清涼院別院で、突然雲や花や木々が身近に迫ってくるように感じたときに似ていた。私はそこに座って朝日が杉木立を通して差し込んでくるのを眺めた。そのときふと私は、自分が、今の瞬間、太陽や、木立や、藤の花や、清水の流れと、全く同じものになっているのを強く感じた。(中略)私は、私を取りまいている太陽や空や花と同じものとなり、その中に突然解き放され、それと同じ資格で、そこに存在しているのだった。(中略)それまで私は、光悦という一人の人物として、雲を仰ぎ、花を凝視した。(中略)私は雲や花とは別個の存在だった。(中略)しかしその朝、私は雲や花や杉木立と別個の存在ではなかったのだ。私は光悦などではなく、まさに流れゆく雲に他ならなかった。散りゆく藤の花に他ならなかった。私は雲であり、花であり、杉木立であった。(中略)私は自分のなかでながいこと、しこっていた<死>が、その瞬間、ふと、なごみ、溶け、軽やかに揺らぐのを感じだ。辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、428頁 一つめの引用部分は、辻文学の原点とも言える三つの至高体験のうち、ポン・デ・ザールからセーヌを眺めるという挿話によるものだと思います。この体験については、『詩と永遠』に書かれています。引用してみます。
ポン・デ・ザールのうえで私が感じたのは、(中略)全てのものが私という人間のうちに包まれている、ということでした。並木も家も走りすぎる自動車も、見も知らぬ群衆も、すべて、私と無関係ではなく、それは私の並木であり、私の家であり、私の群衆でした。辻邦生「小説家への道」『詩と永遠』岩波書店、1988、249頁
このことは、私が世界を包んでいるとも言えますが、言葉を買えると、私が世界のなかにとけこんで、見えない人間になり、世界と一つになっているという風にも考えられます。辻邦生「小説家への道」『詩と永遠』岩波書店、1988、250頁 光悦が「
しかしその朝、私は雲や花や杉木立と別個の存在ではなかったのだ。私は光悦などではなく、まさに流れゆく雲に他ならなかった。散りゆく藤の花に他ならなかった。私は雲であり、花であり、杉木立であった」と述べる境地が、辻先生の体験に裏打ちされているものであることが分かります。 そして、続く<死>の克服と「太虚」の境地への発展の部分は以下の通りです。
<死>も実は藤の花が散り、雲が流されることに他ならぬ、と感じられた瞬間、それが一挙に溶け、流れ出ていたことに気がついたのだった。歓喜の念は、この<死>の突如とした解消から生まれていたのである。辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、430頁
私が太虚を感じたのはそのときである。だが、それは何という豊かさを浮べた虚しさであるのだろう──私は、その瞬間そう思った。まさしくこの生は太虚に始まり太虚に終る。しかしその故に太陽や青空や花々の美しさが生命を取り戻すのだ。(中略)私は太虚の豊かな死滅と蘇生のなかにあって、その宿命を完成させる以外にどんな仕事が残されていようか。私が残したささやかな仕事も、この太虚を完成させることに他ならないのだ。辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫、1990、430頁 光悦が感じた、主観と事物の混合する状態において、死との関連が述べられます。死の解消によって光悦が歓喜の念を抱くことで、ある種の境地に達しています。 この死の解消による歓喜の念についても『詩と永遠』に述べられています。それは、<生>を願わしいと思う気持が昂じて、歓喜の念が生じるのであって、これが<詩的な状態>につながるのであるとされています。光悦の場合であれば、「ささやかな仕事」の原動力に当たるものです。 <死>の解消の境地について述べるためには、死についての考察を進めなければなりません。そこで冒頭に触れた『モンマルトル日記』に示唆が隠されているのではないか、と思ったのでした。まさにその通りで、辻先生が<死>を意識している場面に何度か出くわすのです。 次回は、モンマルトル日記の考察と、太虚についてさらに考えてみたいと思います。
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