エウセビア、マルシャリン、つれづれ

「背教者ユリアヌス」。

実は、読みはじめたものの、なかなか進まなかったのです。

この3ヶ月、あらゆることが、まるで崖から岩が何枚も剥がれ落ちるような、そんな3ヶ月。そして、それはまだ終わっていないという状況なのかも。

ですが、まる裸に剪定された木々が、春になると、驚くほどの勢いで葉をつけることがありますが、あの勢いに似たように、少しずつまた手に取れるようになったのでした、

本当に、うつし世の濁りゆく流れの激しさと言ったら、筆舌に尽くしがたいものがあります。ときおり、浮く瀬に身を寄せ、息をつきたいもの。辻邦生を読むということ、あるいは、文学を読むということは、そういうことなのかもしれません。どちらが本当の世界なのか、わからなくなります。

そんなことを思いながら、まだまだ「背教者ユリアヌス」は二巻の半ば。皇后エウセビアの庇護を受けたユリアヌスがアテナイへ向かうシーンまで到達。

エウセビアはまるでシュトラウスの楽劇「ばらの騎士」のマルシャリンのよう。世間をまだ知り抜かないオクタヴィアンを諭すシーンを思い出しました。そうか、ここまで親密だったか、とも。本当に久々に読んだので、新鮮です。

きっと辻邦生も、「ばらの騎士」をパリで見ていたはず。手記を調べて見ます。あるいは浅草の経験などもあるのだろうか、などと。また、アテナイへ向かう海にイルカが泳ぐシーン、きっと、自身の旅の経験が昇華したものなんだろうなあ、と思いながら、遠くに過ぎたことがこうして半世紀経って蘇るということに驚いたり。

というわけで、まだまだ読みます、背教者。

みなさまも、新年度、お気をつけて。おやすみなさい。グーテナハトです。

背教者ユリアヌス 第4巻を入手

背教者ユリアヌス、第4巻を入手しました。

なんだか感無量です。

それにしても、本当に慌ただしくばたばたするま毎日で、本をとる間もありません。

ただ、ざっとこの本を開くとなんだか今の状況にヒントを与えてくれる文章に遭遇しました。

しかし政治というのは、頭のなかで考えたとおりに決して実現しないのだ。頭のなかでは、おれたちは丸い完全な形を夢みている。だが、それが実現する際には、三角になったり、梯子型になったり、歪んだりするのだ……
背教者ユリアヌス第4巻 82ページ

ものごとを前に進めるには、完全な形で進めることはできない、ということ。結局は、不完全なかたちで、周りを巻き込み、不満や痛みを起こしながらも、前に進んで行くもの、ということ。

まあ、そんなものです。それは、古今東西変わらないのでしょうね。

それでは、みなさま、良い夜を。お休みなさい。

辻邦生「背教者ユリアヌス」第1巻のKindle版が出ました!

待望の「背教者ユリアヌス」第1巻Kindle版の登場です。
これで、どこでもユリアヌスと会えますね!

さしあたり短信です。

私は、第2巻を読み始めました。なんだかドキドキします。前回よんだのが大分前です。あらすじは覚えていますが、それでもとても読んでいてワクワクします。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

辻邦生「銀杏散りやまず」は歴史小説か?あるいは歴史か?

銀杏散りやまず、読了しました。
文庫版後書き(高橋秀夫氏)にもありましたが、辻邦生作品の中でも移植の作品といえると思いました。全体構想を作り上げた中で、作品を構成していくのが辻文学の一つの特色であり、それは「小説への序章」において、そうした全体直感で全体を把捉した上で、文学を構成するということを、プルーストやマンを例にとって、とりあげられていた記憶があります。

ですが、この「銀杏散りやまず」はそうではありません。辻邦生のお父さまである辻靖剛さんが亡くなられたことをきっかけに、辻家の歴史をたどりながら、祖先とのつながりを通してお父さまとご自分の関係を見つめ直す、あるいは和解するという作品です。連載をしている中で、新たな資料が見つかるなど、ある意味エッセイのような趣の歴史小説で、思うままに書いているようにも思います。

私は「型破りな歴史小説」と感じましたが、そのうちに、「私小説」あるいは「家の小説」のようにも感じたのです。とあるご縁で手元にあるモノオペラ「銀杏散りやまず」の演奏会パンフレットにおいてもやはり「史伝風の私小説である」と書かれています。

この「私小説」という言葉に、私は本当に深く思うことがありました。おそらくは、私小説を書かなかった故に、正当な評価をうけられず「フォニイ論争」のようなこともあったのだと思うのですが、「銀杏散りやまず」はやはり私小説であり、であれば初期の短編群もやはり私小説だったのだ、とも思いました。

さて、この「銀杏散りやまず」が、歴史エッセイではなく小説(それは歴史小説なのか、史伝風小説なのかはさておき)である決定的な証拠を見つけてしまいました。それは恐ろしいほどに自明なところにありました。きっと有名な事案なので、ここでは伏せますが、「安土往還記」で、あたかも実在する歴史であるかのように、信長の事跡を再構成した辻邦生ですので、きっとさらりとそうした仕掛けを入れ込んだのだなあ、と思いました。

さて、寒い日々が続きます。どうかみなさま、お身体にお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい、グーテナハトです。

辻邦生「背教者ユリアヌス」第2巻ゲット

辻邦生「背教者ユリアヌス」第2巻、予約していまして、ゲット。青春の終焉という言葉に痺れました。

こちらは少し我慢して「銀杏散りやまず」を引き続き読んでいます。

今日は取り急ぎ。

辻邦生「銀杏散りやまず」読み始めました。

辻邦生「銀杏散りやまず」を読み始めました。

この本、おそらくは20年ほど前に読んだはずです。辻邦生がお父さまに抱く深い愛情を感じる作品。父祖を語る、ということはそういうことなんだと思います。

まだ読み始めですが、辻邦生のお父さまが亡くなるシーンは、何か深い悲しみとともに、荘重で重々しいものにも感じました。英雄の死のシーンにも重なるもので、この筆致もまたお父さまへの愛情なんだろうなあ、と思いました。

引き続き読みます。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

「背教者ユリアヌス」第一巻完了

いやあ、素晴らしかったです、ユリアヌス。

さしあたり読み終わり、余韻に浸る感じ。

巻末の「ユリアヌスの廃墟から」も素晴らしくて、しばし読みふけってしまいました。小説家の舞台裏が満載。もちろん、一度は目を通しているものではありますが、その時々の問題意識に応じて、学ぶものも変わります。トーマス・マンやノサックの事例から、小説を書くに当たって意識されていたことがあらわになっていました。

まあ、その気になれば、旧い文庫本で続きも読めますが、あえて、来週の第二巻発売を待つことにします。一応予約してるので、わくわくしながら待ちます。

短信的に今日はここまで。

みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

辻邦生「背教者ユリアヌス」と「ある告別」に共通すること

辻邦生作品を読むと、あれ、このシーン、どこかで読んだなあ、ということがたまにあります。初めて読んだときには当然気づきませんが、辻邦生を読み始めて四半世紀もたつと、そういう気づきもあります。

今日、「背教者ユリアヌス」を読んでいたのは以下のような部分でした。

ユリアヌスが、ゾナスという学生とニコメディアで逢ったあとのこと。二人で神殿跡を訪れるシーン。この、神殿の廃墟を訪れるというコンセプト、「ある告別」にもあったなあ、とおもったのです。「ある告別」は、イタリアからギリシアへ向かう船旅に始まり、ギリシアの神殿跡で壮絶な夕暮れを見て、人間の若さ、すぎゆく時と雄々しく別れる、という作品。辻邦生文学の非常に重要なコンセプトであるパルテノン神殿が描かれている作品でもあります。
この場で「ある告別」を語ることは趣旨ではないのでこのあたりでいったん止めますが、このなかで山の中をあるいて神殿跡を探し出すシーンがあるのです。そこで二人のギリシアの娘と言葉をかわし、神殿跡へと至る、というシーン。あそこで「カスタリアの泉にゆくのはこの道よ、ね」と娘が道を教えてくれるのです。かたや、「背教者ユリアヌス」では神殿に至る道に「カストリアの泉」が現れます。微妙な表記ゆれはありますが、関連しているようにも思います。

(左が「ある告別」、右が「背教者ユリアヌス」)

このカスタリアの泉は、デルフォイにあった霊泉で、神託に訪れた参拝者が身を清めたようです。「ある告別」においては、デルフォイにあることになっていますが、「背教者ユリアヌス」では場所が異なりますが、なにか神殿に向かう参拝者が身を清めるために使う泉のことを指しているんもではないかと推察しました。

おそらくは、いずれも実際にギリシアに行かれたときの経験が元に昇華したシーンではないか、と考えます。「パリの手記」においては、1959年8月26日にデルフォイをおとずれ、佐保子さんが、道を聞いたジプシーのようなギリシアの美少女と仲良くなった、とありました。この美少女が、「ある告別」で道を教えてくれた娘に昇華したのではないか、などと想像しました。
作家が作品を生み出す舞台裏を垣間見た気がいたします。

というか、この調査をするなかで、もう一つ、複数も作品における興味深い関連性を発見し、辻文学への理解が深まったのでした。それはまた。

さて、明日の東京地方は雨だそうです。気温が上がり、暖かいのはよいのですが、雪国では雪解けにともなう思わぬ事故が懸念されているようです。どうかみなさま、体調や天候の変化にはおきをつけください。

それではおやすみなさい。グーテナハトです。

読む本が多いが、まずは「背教者ユリアヌス」から。

Photo 寒い日が続きます。みなさま、お変わりありませんか?

先日から「西行花伝」を読み始めていたのですが、なかなか進まず、そうこうしているうちに、「背教者ユリアヌス」が復刊し、そちらにも手をつけ、Kindleでは「言葉の箱」を繰り返し読みつつ、「銀杏散りやまず」を読まないと、という、今日この頃。

結構進んでいます。いやあ、面白いですね。20年ぶりぐらいに読んでいますが、本当に面白い。漫画にでもしたらずいぶん受けるんじゃないかなあ、と。少女マンガになりそう。誰か書かないかなあ、などと。

今回は、加賀乙彦先生の後書きを読んだこともあり、「風」に注目して読んでいます。至る所に「風」がでてきますが、それがもしかするといわゆる精霊としての神々の息吹のように読めてしまいます。解釈というのはそういうものです。

ユリアヌスがギリシア古典に親しむあたりは、なにか「春の戴冠」を彷彿とさせるものがあったりして、そうした作品間の連関なども気づいてくると面白いです。

一応、木曜日ぐらいには読み終わる想定で、その後は「西行花伝」にもどるか、「銀杏散りやまず」に向かうか。…

いずれにせよ読書へのスタンスに気合が入っていないので、予定を立てて読むことにしました。皆さんはやっておられると思いますし、私も、一年間に100冊タッチした年には、計画を立てていたみたいです。3日で一冊読むと、100冊年間で読めますが、どうかなあ?

文学の本もあれば、仕事の本もあるけれど。

もっとも、立花隆さんによれば、本は全てを読んではいけないそうです。見切りをつけるのが大切とのこと。

踏まえて、進めていこうと思いました。

さて、11月と12月にずいぶん働いてしまいました。前にも書いたもしれませんが。寝不足と深夜の食事を続けた結果、体重が恐ろしいことになっていました。やれやれ、節制しないと何もできないです。さしあたり、お菓子はやめて、ご飯の量を減らし、アルコールも減らさないと。

というわけで、みなさまもお身体にお気をつけてお過ごしください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

辻邦生「背教者ユリアヌス」を入手し、恐ろしいことに気づく。

背教者ユリアヌス、ゲットしました。

帰宅の電車で加賀乙彦さんの解説を読んで、今まで気づかなかった、あんなことやこんなことが、たくさん分かってしまい、恐怖に身震いしています。

実は、題名からして恐ろしいことになっている本なんだ、と。

私は、ユリアヌスは浪人時代と大学時代に2回読んだだけ、ということに思い至りました。それ以降得た知識や経験を使いながら、もう一度ユリアヌスを読むと、違う読み、深い読みができるに違いない、と思いました。

で、結局何が恐ろしいのか?

初版の日付が恐ろしいのです。

これだけだと、ダジャレと思われますが、そうではありません。私は、加賀乙彦さんの解説の最後の3行の異様さにハッとさせられ、読み返して、ことの重大さに気づき、身震いが止まらなかったのです。

きっと、一般的に有名なことで、私だけが気づいていない事案なんだと思います。

で、私も加賀さんに倣って、明示的にはこれ以上は書きませんが、読み始めて四半世紀でこの驚きですので、辻邦生の偉大さを再認識しました。

今、西行花伝を読んでいるのですが、どっちを先にするか。困りました。

ではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。