小説を読む時間に「西行花伝」が進まない理由

辻邦生「西行花伝」を読んでいます。いつものように帰宅時の電車の中。小説の時間と決めています。

読みきったのは一回だけです。実のところ。恐らくは1997年のことかと思われます。これもやはり21年前。この20年間はなんだったんだろう。なにか意味のあることができたんだろうか。せっかく辻邦生を長い間読み続けていたというのに、何を成し得たのだろう、という気の遠くなるような思いを抱きます。

この「西行花伝」、読み進もうにも、気になるシーンで毎回毎回様々なことを考えてしまいます。なかなか進みません。前回は2年ほど前にトライしましたが、やはりそのときも毎回毎回止まってしまって、読み続けられませんでした。

それで、今日はここで止まってしまいました。

「それなら頂点に達しないほうがいいわけだ。誰も、あの空虚さの中では生きられないからな」

「いや、わたしはそれを味わってみたいな。もう上には昇るものがない、という、絶頂の、その空虚さをね。それが味わえれば、生まれた甲斐があるというものだ」

(中略)

「あの空虚さは、死よりも無残なものだ」

「日々上昇してゆく営みは無益というわけか」

「そうだ。無益だ」

「西行花伝」新潮文庫 142ページ

義清=西行と平清盛の会話のシーン。鳥羽院の空虚を知る義清=西行が、権力欲に燃える平清盛と対話しているのです。この対話、平清盛のその後を知っているだけに、実に鮮やかななのです。

このやり取りを若い頃に読み、胸に刺さると、いわゆる普通の社会生活を営むことはできなくなりそう。毎朝会社に通い、働くことはできても、虚しさをなんとなしに予感している。以上、それ以上のことを試みることはできない方もいるのではないでしょうか。

さて、一週間も終わり、今日は早めに身体を休めます。みなさまもよい週末をお過ごしください。

辻邦生の文学を読みながら感じた世の背理と生きる喜ばしさのあいだ

今日は1日中雨。今日も帰宅のために乗った電車の中で辻邦生の「西行花伝」を読みました。

先日も書きましたが辻邦生の作品にはバッハがよく似合うと思います。ゲーベルの「音楽の捧げもの」を聴きながら少しばかり「西行花伝」を進めました。いくらかテーマのようなものが分かってきた気もします。「嵯峨野明月記」との関連性なども思いついたりしました。

また、昔、私がこのブログに書いた記事読み返してもいました。

当時、生きることの喜ばしさは、死を顧慮したうえで、その上で得られるものだ、というような解釈をしていたようです。11年前の記事でしたので、今思うとどうだろう、という気分になります。

ただ、実際に、週末に辻文学についての講演会を聴き、その後辻文学について語り合う機会を得たことで、なんだか生きることの喜ばしさのようなものを感じているなあ、とも本当に思っています。

世の中は背理であり、笑い飛ばすという、「嵯峨野明月記」のなかで俵屋宗達が語るシーンがありますが、背理であることを感じているからこそ、美しいものに触れることで、生きることの喜ばしさを感ている、ということなのかしら、と思ったり。死について考えるということもそうですが、理不尽や絶望といった世界の背理こそが、美の原動力なのだろうか、などと思ったりもします。

荒々しい自然から美を構築したのが西欧文明ですが、きっとそのような、世界の背理から構築した美こそが、辻邦生のパルテノン体験=美が世界を支えるという直観なのだろう、と思いました。ということは、いま直面している背理も美にとっては重要な役割を果たしている、ということになります。背理を笑い飛ばし、生きる喜びを感じ、美を立ち上げよう。そう思います。

さて、明日は人間ドックでして、仕事場へは行きません。いつもは5時起きですが、明日は6時半起きで大丈夫。ついつい夜更かしです。

ということで、みなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

学習院大学史料館講座「辻邦生《背教者ユリアヌス》をめぐって─美術と文学の観点から─」に行ってまいりました。

昨日は、学習院大学で開催された講座「辻邦生《背教者ユリアヌス》をめぐって─美術と文学の観点から─」に行ってきました。

第一部は美術史家の金沢百枝先生の講演。「美術からみる『ユリアヌス』あるいはりすちゃんの気配。金沢先生は、辻邦生の奥様で美術史家の辻佐保子さんのお弟子さんに当たる方で、佐保子さんとの思い出を交えながら、辻邦生「背教者ユリアヌス」の場面や描写を美術史的観点から解説したものでした。登場する様々な文物、例えばモザイク画であったり建築物であったり彫刻であったりそうしたものを、実際の画像で見ると、やはり作品に対する理解も深まるし、あるいはもっと言うとパースペクティブ自体を変えてしまう力がある、と言うことがよくわかったのです。時間に余裕がないと、小説を読むにもあらすじを追ってしまいます。とくに、最近、時間に追われていて、「背教者ユリアヌス」の再読も果たしてきちんとできていたのか、と反省しながら講演を聴いていました。

第二部は、昨年に引き続き加賀乙彦さんの講演でした。昨年もお話しされた辻邦生との出会いのシーンやパリのシーンも再びお話になりつつ、また加賀先生の思い出話も交えながら、パリ時代、そしてその後の辻邦生との親交についてお話がありました。

ポイントは三つあったと思います。

一つ目のポイントは、同人誌「犀」の件。加賀さんは、同人に入るように辻邦生に誘われたが、その後立原正秋と辻邦生が文学のことで意見を対立させ、辻邦生が同人を離れた、というものでした。

一方、辻邦生がこの同人に入ったのは、加賀乙彦さんを世に出すためであり、目的を果たした上で同人を離れた、という記述を辻邦生のエッセイのなかで読んだ記憶があります。友情だなあ、と思いました。

もう一つのポイントは交通事故の件と、亡くなった場面のこと。これまで私が活字で読んだことのないことで、知らない情報でした。ここに書いてもよいものかどうか。話されたと、加賀さんはうつむかれ、おそらくは涙を流されていたように思いました。私も落涙。当時まだ二十代でちょうど読み始めて10年たった時でしたが、一ヶ月アルコールを飲まずに私なりに追悼しました(飲み会で先輩に強要されても耐え抜いたのです)。

ポイントの三つ目。北杜夫、辻邦生、加賀乙彦の小説の源泉とはなにか?と言う話題です。

北杜夫は、自分の親交を書いている。

辻邦生は、勉強して徹底的に調べ上げ文学世界を創り出す。

加賀乙彦は、精神病患者、犯罪者の研究がソースとなっている。

かつて菅野昭正さんが書かれた文章「本の小説、小説の本」について書いたことがありました。加賀さんのおっしゃるとおり、と私も思います。

http://museum.projectmnh.com/2016/03/21225416.php

個人的には、今回の文庫本についていた加賀さんの解説の種あかしが聴きたかったのですが、それはならず。もう少し考えてみたいと思いました。

講座の終了後は、辻邦生を語る会へ。日頃の環境と、まるで別の世界に来たような感じで、私としては、心が洗われ、しばし生きていることを再確認したような気が致します。また明日からが大変です。

それはみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

小説を読む時間 8日目 強制労働のイメージ

今日も村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読みました。

【ネタバレ注意】

 

第三部の最終においては皮剥ぎボリスの話が出てきます。この強制労働のイメージ、炭鉱の描写が鮮烈で、あまりにショックです。

先日も書いたように、私は小説において現実と小説世界の境が分からなくなることがあります。今置かれている状況とこの強制収容所のシーンがあまりに密接に絡み合っているような気がしています。

この強制収容所のイメージは、おそらくは人間にとっては普遍的なイメージなのだと思います。

人間は誰しも何か閉じ込められているという状況なのではないか。そこから飛び出そうとしてもなかなか飛び出せないと言うイメージは人間にとって普遍的なものではないだろうか、と。

それは、家庭に閉じ込められているでもいいし、とある地方に閉じ込められているでもいいし、会社に閉じ込められているでもいいし、あるいは国に閉じ込められているでもいいし、地球に閉じ込められている、ということでも良いのです。おそらくは人間の普遍的な要求としての「解放」と言うものがここに現れているのではないかと思うのです。

それにしても、本当に胃が痛くなる気分の悪さを味わっています。それは、別に村上春樹の文学が悪いわけではありません。それほど深く共感してしまったということです。それほどに強い文学、ということなんだと思います。(疲れ切った身体には応えます…)それは、先日も書いたように、辻邦生の文学を読んで、そこにある理性の明るさがあまりに眩しくて目が潰れてしまう気持ちを味わったのと似ています。

おそらくは、辻邦生と村上春樹は逆の方向を向いています。しかしながらそれはぐるっと回って同じところでつながっている気がします。真実を語っていると言う意味において。

もう少しで「ねじまき鳥クロニクル」を読み終えます。次は何を読むか。あるいは、ブログに書くのは続くのか?

みなさまも、ゆっくりお休みください。おやすみなさい。グーテナハトです。

小説を読む時間 7日目 通奏低音

今日はほとんど小説を読む時間が取れません。ただ、そうはいっても5分ぐらいは読んでみようかなあ、と思い、手に取りました。

引き続き村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」です。

て、運命に関する記述があり、とても驚いたのです。しかも、通奏低音と言う言葉とともに。

運命の力は普段は通奏低音のように静かに、単調に彼の人生の光景の縁を彩るだけだった。

昨日、私がは「通奏低音のように何か運命性のようなもの」と書きましたので、その偶然に少し驚いたのです。

村上春樹は、音楽音楽を愛好していますので、そうしたメタファーを使うのは自然だと思います。私もジャズもクラシックも大好きですので、このような偶然があっておかしくはないと思います。先日も書いたように、こうした村上春樹の間口の広さが、多くの人に受け入れられる理由であるように思います。

明日からまた仕事です。休む間もありません。せめて早く寝て明日に備えます。

それでは皆様、おやすみなさい。

小説を読む時間 6日目 小説に描かれる超自然的なこと

今日も、少しだけ小説を読んでみました。

村上春樹です。今日は週末ですので自宅におりましたので、電車に乗っているわけでもなく、別に小説を読む時間があるわけでもないのですが、まあ、せっかくなので少しは読んでみようかなあと思い、5分ほど時間を見つけて読んでみた次第です。

それで、村上春樹を語るほど村上春樹を読んでいるわけではありませんが、それでも何か語りたくなるような欲求を抑えないわけにはいきません。

今日、私があらためて感じたのは、物語の中にまるで通奏低音のように何か運命性のようなものが流れていることを感じる。それもほとんど超自然的な運命性です。

辻邦生においてもやはり超自然的な運命の出会いであるとか、あるいは幻覚や天変地異あるいは天文学的な現象等によって、運命性を感じさせる場面があります。例えば、背教者ユリアヌスでは、ローマの神々がユリアヌスの前に姿を現し、ユリアヌスに様々な示唆を与えます。

村上春樹においてはそれを超えるような超自然的運命的な事柄が描かれているわけです。「ねじまき鳥クロニクル」では、ノモンハン事件、満州国、井戸と言ったキーワードで、場所や時間を超えたつながりが描かれていると思います(もちろん、まだ読み終わっていないので全貌がわかっているわけではありません)。

私は、昔から思うのですが、小説においては、普通では説明のつかない、現実を超えた、あるいは科学では説明できない超自然的現象が、何かしら語られていることが多いように思います。

小説の起源が、おそらくは古代において口伝えで伝えられた神話であるということからして、あるいは、18世紀以降の小説が未知の世界を伝えるメディアだったということからして、小説が自分の理解や知識を超える何かを伝えるものだとすれば、小説が超自然的なことを伝えることに関して何の不思議もなく、むしろその本質の1つなのではないかと思います。

などと言いつつ夜も更けてきました。そろそろ眠りについて、明日に備えないと。

それではみなさまおやすみなさい。グーテナハトです。

小説を読む時間 5日目

今週月曜日から始まった小説を読む時間。今日で5日目になります。今日も引き続き、「ねじまき鳥」を読んでいます。

村上春樹の小説は間口が広く、だれもが何か共感できるチャンネルを持っているのが強みだと思います。歴史、音楽、政治、芸能…。この間口の広さが、普遍性の秘密なのだなあ、と。これはやはり「騎士団殺し」でも感じたことです。プロットはあるような無いような。しかしながら、伏線と謎が縦横に張り巡らされているように感じられ(もしかすると、それは、伏線があるかのように読者が受け取るように仕組まれたものとも思えますが)、ページをめくる手が止まらないわけです。

ただ、ときに、その手が止まることもあるのは何故なのか。もしかすると、この特異すぎる世界観を理解することは精神的な負担が強い、ということではないか、と。現実世界で生きているなかで、村上春樹の文学世界はあまりに苛烈に真実で、心が焼き切れてしまいそうなのです。

それは、辻邦生を読むときにも感じることです。あまりに現実と離れた理想の世界を見たときに、感じる脂汗をかくような疲れにも似たものです。おそらくは、真実は、現実にとっては都合が悪いことなんでしょう。だから脂汗をかいてしまうということなのかもしれない、と思いました。

今日の東京地方はとても良い天気でした。朝の雲1つない空は筆舌に尽くしがたいものでした。明日も明後日も良い天気。そしてそれ以降は梅雨が来そうです。皆様もよい週末をください。

おやすみなさい。グーテナハトです。

小説を読む時間

今週から、仕事場からの帰宅時間は、小説を読む時間と決めてみました。

おかげで、「背教者ユリアヌス」を読み終え、村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を再開しました。ずいぶん中断していましたが、不思議にも違和感なくどんどん入り込んでいます。
思えば、辻邦生ひとすじでこれまで生きてきました。永井路子、岡本かの子、塩野七生などを読む機会がありましたが、それ以外の小説を読む機会はありませんでした。外国だと、プルースト、アニタ・ブルックナー。あるいは、SF。ハインラインやアシモフ。振り返りきれていないかもしれないですが、記憶の地平の上にあるのはそうしたものです。

こうして、振り返ると、あまりにも小説を読んでいないと思われるということと、文学でいうと女性作家が多いということに気づきます。理由は特にないはずですし、あったとしても後付けの理由のはずです。

で、村上春樹も、ほとんど読めていません。ただ「騎士団長殺し」や「色彩のない多崎つくると 彼の巡礼の年」はリアルタイムに読んでいます。予約して買いましたし。本を予約して買うワクワク感は半端ないです。

いずれにせよ、帰宅時間で小説を読む、という習慣が長く続けられるよう、頑張りますし、実際長く続けられることを願っています。

それではみなさま、おやすみなさい。

背教者ユリアヌス、読み終わりました。

文庫で再刊された辻邦生「背教者ユリアヌス」全四巻を読み終わりました。
とにかく、最後の四巻は、ユリアヌスの死へと至る悲しいコーダのようなもので、それは、「トリスタンとイゾルデ」や「ニーベルングの指環」のような救済もなく、ほとんど「ビーター・グライムス」か「ヴォツェック」のような終幕感だなあ、と今は感じています。

辻文学を「美と滅びの感覚」と評した文章の記憶があります。まさに、「ユリアヌス」は美と滅び。史実ながら、現実に感じる無力感に通じるものがあり、悲劇的です。私の今の読み方は、あまりに悲観的で、それは、なにか現実解釈が歪んでいるからなのでしょう。終幕に至る途中の楽章で語られた美しい調べがあまりに切ないのです…。

20年ぶりに読み返しました。今は、初めて読んだ学生時代には感じることのなかった現実世界で感じる空しさを知っています。だからこそ、胸が痛みます。

そして、この読み方は、きっと間違っている、そうも思います。

今日読めたのは、仕事の帰り道で、文学作品を読むことにしようと決心したからです。どうも仕事の関連する本ばかり読んでしまう嫌いがありましたが、それを変えたいなあ、と思ったので、というのが理由です。おかげでなんとか読み終わった感じ。明日の帰宅もやはりなにか文学作品を読もう、そう思います。

それではみなさま、おやすみなさい。グーテナハトです。

エウセビア、マルシャリン、つれづれ

「背教者ユリアヌス」。

実は、読みはじめたものの、なかなか進まなかったのです。

この3ヶ月、あらゆることが、まるで崖から岩が何枚も剥がれ落ちるような、そんな3ヶ月。そして、それはまだ終わっていないという状況なのかも。

ですが、まる裸に剪定された木々が、春になると、驚くほどの勢いで葉をつけることがありますが、あの勢いに似たように、少しずつまた手に取れるようになったのでした、

本当に、うつし世の濁りゆく流れの激しさと言ったら、筆舌に尽くしがたいものがあります。ときおり、浮く瀬に身を寄せ、息をつきたいもの。辻邦生を読むということ、あるいは、文学を読むということは、そういうことなのかもしれません。どちらが本当の世界なのか、わからなくなります。

そんなことを思いながら、まだまだ「背教者ユリアヌス」は二巻の半ば。皇后エウセビアの庇護を受けたユリアヌスがアテナイへ向かうシーンまで到達。

エウセビアはまるでシュトラウスの楽劇「ばらの騎士」のマルシャリンのよう。世間をまだ知り抜かないオクタヴィアンを諭すシーンを思い出しました。そうか、ここまで親密だったか、とも。本当に久々に読んだので、新鮮です。

きっと辻邦生も、「ばらの騎士」をパリで見ていたはず。手記を調べて見ます。あるいは浅草の経験などもあるのだろうか、などと。また、アテナイへ向かう海にイルカが泳ぐシーン、きっと、自身の旅の経験が昇華したものなんだろうなあ、と思いながら、遠くに過ぎたことがこうして半世紀経って蘇るということに驚いたり。

というわけで、まだまだ読みます、背教者。

みなさまも、新年度、お気をつけて。おやすみなさい。グーテナハトです。