吉田秀和さんの記事を読んで──指環もクライマックス
3月20日の朝日新聞朝刊の音楽展望にて、吉田さんが書かれていたことが気になって仕方がありません。
吉田秀和さんが中原中也と一緒にバッハの「パッサカリアとフーガ」をストコフスキーが振った盤を聴いていた時の話。1930年代前半と書いてありますので、もう70年余りまえのことです。
素晴しい演奏だったので、吉田秀和さんは思わず「すごいなあ」と口に出してしまったのだそうです。すると、中原中也は「どうすごいんだよ」と突っ込んできたのだそうです。吉田さんは「どぎまぎ」しながら「だって神様がいるんだもの」と言ってしまったのだそうです。
そもそも、吉田秀和さんは、中原中也のことを言葉に厳しい男だ、と思っていたから、余計なことを言うまいと思っていたのだそうですが、このときばかりはついつい「すごいなあ」なんて言ってしまった。中原中也はそこを見逃さなかったのです。
中原中也はそれから畳にごろりと寝ころがって、吉田秀和さんをジロリとにらみつけたのだそうです。
音楽は、他の芸術とは違って、直接心にグサリとやってきますが、それを言葉で表わすという行為は、まるで眼に見えぬ「もの自体」を眼に見えるように幾重ものフィルターを通すという行為で、言葉になった途端に、それが全く別物であるということを認識させられてしまう感じ。
もっと言葉に慎重でなければならない。さりとて、言葉で書くことを諦めてもならぬ。極めて難しい状況に立たされているのだ、ということを改めて認識しました。重いなあ。本当に重い。
そんなことを思っている内に、カラヤンの振る「神々の黄昏」第三幕の終幕部にさしかかりました。これで15時間にも及ぶ長い指環が終ると言うことなのですね。(一応)全部聞き通せたなあ、という安堵感と、目の当たりにした悲劇にうちひしがれた心を慰めるかのような優しい弦楽器の音。
サヴァリッシュが振った神々の黄昏のDVDも毎日少しずつ見ていますが、ようやくとクライマックスにさしかかりました。ジークフリートがハーゲンにまた薬を飲まされて、徐々にかつてのことを思い出していく。その隙に、ハーゲンはジークフリートの弱点である背中側にまわって、槍を突き立てる。そこまでで昨日は所用のためストップ。こちらも楽しみ。
ディスカッション
rudolf2006さん、コメントありがとうございます。
吉田秀和さん、本当にお元気です。中原中也と友人だったということは知っていましたが、ああいう文章を読むと不思議な気がします。中原中也は教科書にでてくるような詩人ですから、その方と一緒にバッハを聴いた吉田さんがまだお元気であると言うこと自体が驚きです。
音楽を聴いて、それを文章化することは本当に難しいことです。おっしゃる通り、悩みながらいろいろな方々が音楽を語ろうとしていますが、僕もなんとか書いて行きたいと思います。まだまだ修業します。
Shushiさま こんにちは
吉田秀和さん 元気に原稿を書いておられるんですね
新聞を読んでいないもので、分からないんですよ、爆~
中原中也と一緒にバッハを聴いたというのが、凄いですよね
本当に
「どう凄いんだい?」確かに聴かれると困りますよね
今、ハイドンのカルテット、ハイフェッツのヴァイオリンにはまっているのですが、良さをどう表現したらいいのか、本当に悩みますね~
ですが、きっとこれまでの歌人、詩人も、小説家も悩みながら文字にしてきたんでしょうね~
ミ(`w´)彡