Symphony

 なんだか頭がすっきりしない一日でした。必死にパルジファルを聞こうとするのですが、なんとも心が落ち着きません。

こういうときはなにを聞くべきか? 

私はモーツァルトをえらびました。ブロムシュテットがシュターツカペレ・ドレスデン(SKD)を振った交響曲第40番と41番のカップリングCDです。

しかし、SKDの音は素晴らしい。それは甘さではありません。冷徹で真摯で厳格な様式美としてのモーツァルトを支える堅牢な美しさです。もちろんブロムシュテットの、構築美を際だたせる厳しく精緻な棒がそれを支えているのは間違いありません。

私はある種の癒しをもとめてiPodのホイールを回したのですが、癒されるどころかカツを入れられた気分です。背筋がのびて頭もすっきりとして、文章を書けるほどに精神的復旧を成し遂げました。

テンポの設定は中庸かそれより少し遅いぐらい。過剰なアゴーギク、テンポ・ルバートは用いていません。それがなお謹厳な性格を際だたせています。 昨今の演奏(といっても新国中心ですが)はこのアゴーギク的な要素が極めて目立つように思います。私が指揮者でもやはりそうすると思います。

しかしながら、おそらくはこのCDにおいては以下の二つの理由により、イン・テンポが肯定されるべきでしょう。

まずはそれがモーツァルトであるということ。もちろんバロック音楽のようにイン・テンポの必然性を強くは持ちませんが、それでもなお過剰なアゴーギクは聞くものにとってあまりに過剰な刺激となる恐れがあります。モーツァルはプッチーニでもシュトラウスでもありません。ましてや松田聖子でもありませんので。モーツァルトの持つなかば明快で爽快ともいえる和声はを際だたせるのにテンポの変化による拡大、マグニファイアは過剰な装飾なのです。

もう一点あるとすれば、それはやはりブロムシュテットの音楽性とかセンスとでもいうべきものでしょう。私が昨年感涙に溺れる思いをしたペーター・シュナイダーが41番を振ったときのことを思い出したのです。シュナイダーの指揮は透き通る軽やかな舞踏のようなサウンドでして、このブロムシュテット盤とは多少違うものがあります。ですが共通しているのは、おそらくは両者ともほぼイン・テンポの演奏だったのです。あのワーグナーやシュトラウスで音をためにためて一気に感興を放出するようなシュナイダーが、です。

おそらくはモーツァルトをイン・テンポで振るセンスというものが、私の中で確固たるものとして確立されているのだと思うのです。私は、このブロムシュテット盤やペーター・シュナイの指揮に「まめやか」という形容詞を使いたくて仕方がないのです。この言葉、たしかゲーテの「ファウスト」最終部でファウストが語る言葉でしたが、その言葉がぴったりとくる演奏でした。

申し添えますと、デュナミークはきちんと使っておられておりまして、それは見事なものです。

Classical

Twitterにも書きましたが、先週は五年ぶりに秋葉原に行きました。少々億劫でしたが、なんとか。秋葉原と言えばなんだかくたくたになる街という印象があります。学生時代、PCを買いに出かけたころのことです。当時はマハーポシャとかありましたね。懐かしいです。一件目の有名PCショップで早々に品を決めて帰ってきました。時間がもったいないですので。躊躇した感もありましたが、実際行って見ると、ネットより安い気がしました。まあ、気分の悪い思いもしたのですが。。。

先日から反省的に音楽を聴けていない感覚です。絶えず聴いてはいるのですが。「マイスタージンガー」、「家庭交響曲」、「パルジファル」、プッチーニのオムニバス、などなど。 「名曲探偵アマデウス」も結構見ました。ラフェルの「ボレロ」、とパガニーニのカプリースなど。

そんな中で、「ボレロ」はかなり興味深かったです。ホルンとグロッケンシュピールの裏でピッコロが調を超えてハモる部分。あそこは倍音を鳴らしているのですね。パイプオルガンのようだ、と番組の中では語られていましたが、まさにそのイメージ。小学生の頃、この部分を聴いてぶったまげた記憶がよみがえりました。

トロンボーンも最高音域でのソロと言うことで、プロでもミスるらしい。ファゴットもかなりの高音域を使って無理して出している。これ、たしかストラヴィンスキーも同じことをやっていたはずです。もちろん小太鼓の難しさは言わずもがな。必要な集中力は並大抵ではないはずです。それからサクソフォーンの導入も。元サックス奏者としては気になるところであります。

サックスの導入はラヴェルがアメリカ旅行でヒントを得たのではないか、と番組では紹介されていました。 ボレロの作曲は1928年でこれまた結構新しい。一方でベルギー人のアドルフ・サックスによるサクソフォーンの発明は1840年です。意外にも古い楽器です。1920年代のジャズは戦後のコンボ携帯ではなくビッグバンド的ディキシーランド的なものだったようです。欧州にもその頃伝わったらしいです。私は、ラヴェルがサクソフォーンを使ったのは、フランス音楽界にあったからだ、と勝手に思い込んでいましたが、どうやら、ジャズの影響という線もあるようですね。

そういえば、クルシェネクの「Jonny spielt auf」はジャズの影響大ですね。確か小澤征爾がウィーンの音楽監督になって最初に振ったオペラはこれだったと思います。

さて、サクソフォーンの伝統はフランスに根ざしていて、マルセル・ミュールという伝説的サクソフォーン奏者もいらっしゃいますし、サクソフォーンメーカーとして随一のセルマー社もフランスの会社。たしかリードもフランスの葦を使うことが多いはず。おもしろい話しとしては、第二次大戦後、リードの原料の葦が不足したそうです。戦争で焼き払われましたので。15年ほど前にどこかで読んだ記憶があります。

ボレロに話は戻りますが、最終部の転調。あれは当時としては定跡を外したものだったようです。 と言うわけで、今日はブーレーズの指揮による「ボレロ」。しかしこの曲を語るのは並大抵ではない。ブーレーズのラヴェルは明晰で理知的で狂いのない時計のようです。トロンボーン、巧すぎです。あの高音であの豊かな倍音。凄いです。

そう言えば、昔、新公立劇場で「ボレロ」に振り付けたバレエをみましたねえ。オペラがはけた直後の初台駅には家路を急ぐオケの方がたくさんいらっしゃるのですが、その日はテナーのケースを持っている方がいらっしゃいました。思い出です。

 

Classical,Concert

 今日も東京地方は天気に恵まれました。典型的な冬型です。と言うわけで、まずは少々遅れましたが、初詣へ行って参りました。今年もいつものように湯島天神へ。それが例年よりもたくさんの人手でびっくりです。景気が悪く、商売や就職もままならないこの頃ですので、神様にお願いを、というところかな、と思いまして、カミさんに聴いてみると、確かに人は増えているらしいのですが、賽銭は減っているらしいとのこと。複雑。我々も今年は少々ダウンサイジングしました。

湯島天神の余りの込みように恐懼してしまい、間に合うかどうかドキドキしたのですが、15時からのN響定期にまに何とか間に合いました。小さい頃に昨年なくなられた音楽評論家の黒田恭一さんの「はじめてのクラシック」を読んだのですが、私の音楽生活の根本はこの本かも知れないですね。もう四半世紀も前の記憶です。確かこの本の中で、コンサートには余裕を持って出かけるべし、予習をして行くべし、ということが書いてあって、いまでもコンサートやオペラに行く場合には遅くても40分前には会場に着くようにしていますし、予習も出来るだけするようにしています。やはり余裕を持って会場に到着しないと、音楽を十全には味わえないでしょう。ギリギリに座席についてもすぐに音楽を楽しむのは難しいでしょうし。

そう言う意味で言うと、今日は少々失敗したかな、と思いましたが、結果的には30分前にはNHKホールに到着できましたので、なんとかセーフです。湯島から明治神宮前まで千代田線で一本ですしね。

曲目は以下の通りでした。 

  •  ヨハン・シュトラウスII世 / 喜歌劇「こうもり」序曲
  • ヨーゼフ・シュトラウス / ワルツ「天体の音楽」作品235
  • ヨハン・シュトラウスII世 / 常動曲 作品257
  • ヨハン・シュトラウスII世 / アンネン・ポルカ 作品117
  • ヨハン・シュトラウスII世 / ポルカ「観光列車」作品281
  • ヨハン・シュトラウスII世 / 皇帝円舞曲 作品437
  • (休憩)
  • R. シュトラウス / ブルレスケ*
  • R. シュトラウス / 歌劇「ばらの騎士」組曲

ごらんの通りオール・シュトラウス・プログラム。とはいっても、リヒャルト、ヨハン、ヨーゼフですけれど。とはいえ、全編にわたってウィナーリズムに彩られたもの。「ブルレスケ」は別ですけれどね。

正直言って、尾高さんとN響のコンビでどういったウィーン音楽が表現されるのか、なかなか想像しがたかったのですが、いざ聴いてみるとこれがなかなか面白かったのです。

第一印象は、なんだか凄く雄々しい感じ。男らしいダイナミックな音作りだと思いました。ウィーンの洒脱な感じと言うより、なんだか取っ組み合っているような力強さでした。ですが、意外とそれがよくて、前半はワクワクしながら聴けました。

しかし、ヨハン・シュトラウス二世は良い曲書きますね。むかし、吉田秀和さんの本を読んでいて、「美しき青きドナウ」が和声的にはベートーヴェン等に比べると平易である、なんていうことが書かれているのを見つけた覚えがありますが(私の曲解、記憶違いかもしれません)、音楽を聴く楽しみを与えてくれるという点では、素晴らしい作曲家です。「こうもり」序曲なかですと、まあオペレッタの序曲なのでドラマの場面場面を描写するものなんですけれど、中間部でオーボエが吹くメランコリックなフレーズがたまらなく良いですね。あの旋律、やっぱり音楽を聴き始めた小学生の頃から好きでして、なんだか勝手に想像をふくらませて文章を書いた記憶がよみがえりました。

それから「観光列車」のこと。この曲、演出的にも面白くて、曲が始まる直前に舞台袖から鉄道員の制服を着た方が出ていらして笛を吹いて、出発進行、という感じ。その方はパーカッションの方なんですが、制服を着たまま舞台後方のパーカッションセクションに座ってシンバルを演奏するんですけれど、曲の途中で汽笛を鳴らす場面で、笛を吹いてくれてわかせてくれました。曲が終わったらまた笛を吹いて敬礼。そのあとがおかしくて、その場で制服から燕尾服に着替えたんですね。着替えるあいだ、尾高さんも指揮棒を休めて待っている感じ。見ている僕らにしてみればとてもユーモラスに思えて、みんな笑っていました。なんだか心休まるひととき。

あとこの「観光列車」、サビの途中で転調するところで、トロンボーンが9度の音をならすんですが、あのテンションが気持ちよすぎる。譜面見てませんが、たぶん9度です。

常動曲も面白くて、曲の真っ最中(におもえるようなところで)で尾高さんが指揮棒をおろして振り向いて「いつまでたっても終わらないのでこの辺で」みたいなことをおっしゃってまたまた大笑い。楽しいです。常動曲は演奏も素晴らしかったです。N響の方々はやっぱり巧くて、スリリングな快感を味わいました。

後半はリヒャルト・シュトラウス。ばらの騎士組曲もやっぱり雄々しいです。冒頭部も激しくて激して仕方がない感じ。管楽器の咆吼の連続。

そして、私はまたも陥落しました。最終部の三重唱の部分。あそこだけはもう涙が出てきてとまりません。気分はもうマルシャリン=元帥夫人と一体化している感じでして、この時間という最大の自然力の前に跪かなくてはならない人間の哀しき運命が切なくて仕方がありません。先日の二期会「カプリッチョ」の演出もそうした意図でしただったと考えているのですが、こういう境地は、この歳になったからこそ分かるものでしょう。20代前半の私は絶対理解できなかったはず。そうでなければ、いま私はここにはいません。

それにしても、音楽はある種「ムダ」で、反経済的なものですが、そうした「ムダ」に真剣勝負で取り組む方々がいらっしゃると言うことにある種の希望を持ったひとときでした。すべてを数値化したり時間化するのが美徳となってしまった今日ではありますが、そうでない価値もあるのだなあ、と。先日新聞で読んだことですが、どなたがおっしゃっていたのか失念しましたが、そうした「ムダ」を愛することこそ大事なこともあるはず。そうでなければ、全員ロボットにならなければなりませんので。

まあ、こういうきれい事では済まされない超絶した現実の厳しさがあることはよく分かっておりますし、まるで刃先のうえを歩くような不安感を感じずにはいられない世の中でもありますので、断言することは出来ませんけれど。衣食住があってはじめて、というところは不変でしょうから。

次の実演は少々間が開きますが、いよいよ「ジークフリート」です。

 

Classical

昨日から仕事でしたが、なんだかへたれた状態。気合いいれないと。どうも年末までの忙しさの反動かしら。まあ認められることが全くない作業に奉仕するのも我慢我慢であります。
というわけで今日は癒しを求めてシベリウスの交響曲を一番から順番に。EMIの廉価ボックスセットにて。ベルグルントの指揮による定番の演奏です。いつも思うのは、明らかにドイツ、イタリア、オーストリア音楽と旋律の質的な相違があるということです。
せんだってデ・ジャヴとかパロディのことを書きましたが、そうしたなにかを想起させるような規範が私の中にはあまりないです。私にとっては、シベリウスもいまだ知らぬ絶景を豊かに含んだ別世界と言えましょうか。音楽は無限ですが有視界飛行できる範囲は限られているわけで、あとどれだけ飛べるかは努力次第でしょう。
ヤナチェクの音楽はチェコ語の音韻を譜面化していると言われますが、やはりその土地土地固有の音韻情報と旋律の結び付きは大きなものがあるでしょう。ラップは米語でやるからカッコいいとか。

話題がそれました。先日、ラジオのクラシック番組を聴きました。幸田浩子さんが出ておられました。番組に温泉コーナーがあって癒しの音楽が紹介されていました。先日はエルガーでした。今日の私にとってはシベリウスが温泉であります。

この世知辛く、すさんだ、不条理で汚濁に満ちた、猜疑と嫉妬がうずめき、偽善と傲りの自己顕示が飛び交う私の職場にあっては、私にとってはもう温泉だと言えましょう。

澄みきった冷たい空気がみちあふれ、遥か遠くの銀嶺の彼方は、琥珀色からモーヴ色へ優しく、だがせまりくる闇夜への凛々しさをも兼ね備えているかんじで、あの空のしたにはアテナ神の典雅清冽な軍勢が行軍しているに違いありません。
そんな白昼夢に遊ぶことのできる音楽でした。

まだまだ学ぶべきことは多いですね。

では。

Classical

えーと、私はフランス語は分かりませんが、デジャヴがフランス語であることは知っておりますので、こんな題名。間違っていたらこっそり教えてください。

先日の続きです。先日はこちら。うだうだ長い文章になっちまいました。それでもせっかく書いた我が子を見捨てるわけには行きませんので載せちゃいます。次の段落からが先日の続きです。

さて、クラシックに話を戻すと、とはいいながらも、必ずしもメインストリームではないようなところでは、クラシック音楽の新曲が日々飛躍し続けておりますね。現代音楽がひとまず思い浮かびますが、もう一つは映画音楽などでしょうか。武満徹も映画音楽をたくさん作っておりますし、池辺晋一郎さんもそうですね(「独眼竜正宗」のテーマは最高!)。

そう言うわけで、やっぱりクラシック音楽は、過去の新解釈を産み出すと言う方向性が一般的ではなかろうかと思うのです。

もちろん、クラシック以外においても星の数ほどの曲があると思いますが、そこでも今後同じことが起こる可能性は否定できません。J-POPを聴くとそうした兆候がすでに現れております。今現在のJ-POP、旋律的にはデジャヴなことがおおいですので。演歌もそうでしょうね。

もっとも、J-POPも演歌も歌詞に重きを置いているということになれば、J-POP・演歌においては、音楽はただの添え物でしょうから、それでも良いのかも知れませんし、商業音楽においてはクラシック以上に解釈性、カスタマイズ度が上がっておりますので、もう少しは大丈夫かと思います。つまり、楽器の編成を変えたり、楽器を増やしたり、シンセサイザーを使ったり、サンプリングを使ったり……などなど、まだまだ未開地は残されておりましょう。

もっとも、「デジャヴ」感それ自体を価値あるものと見る考えもあるでしょう。人は自分の経験を通して外界を認識している、というあの考え方です。バッパー(チャーリー・パーカーを代表とするビバップ、すなわち第二次大戦直後のジャズシーンにおいて、インプロヴァイズにて多用されたフレーズ群を再構成して演奏をするミュージシャンのこと)は、むしろそうしたデジャヴ感を武器にしているとも言えます。必ずしもマンネリズムは悪ではありません。でなければ水戸黄門が1964年から35年間にもわたって放映されているわけはないのですから。

ここまでくると、私の大好きな「引用」とか「パロディズム」まで来ております。これはもう意図したデジャヴですので、その引用の巧みさに大きく肯う感じとなります。先に挙げたバッパー達の作る音楽もある種の引用美ですので否定はいたしません。

先日の「名曲探偵アマデウス」でショスタコーヴィチ交響曲第五番が取り上げられておりました。あの曲はいわゆる「社会主義リアリズム」的音楽として、ソヴィエト共産主義へのショスタコーヴィチなりの跪き、だというのが建前ですが、まあ、みなさまご存じの通り、ショスタコーヴィチの本心はそんなものではなかったわけです。それで、それをどうやって表現したか。引用、あるいはパロディなわけでして、第四楽章の冒頭の金管のフレーズは、「カルメン」のハバネラの歌詞「信じるな!」の部分の短三度である、ということが紹介されておりました。これはもう江戸時代のマリア観音的状態とも言えるでしょう。

抑圧された社会にあっては本心を表現することはあたわず、ただただ引用やパロディを盾にした表現をしているわけです。これは、音楽だけじゃなく文学もそうだと思います。忠臣蔵の舞台は確か室町期だったはず。討ち入りを大手を振って取り上げることが出来るぐらい自由な社会ではなかったので、そうやって話しを入れ替えたんですね。これも引用やらパロディの一種では。

と言うわけで、クラシックの中でも少々外れたところにあると言えるかと思われる映画音楽(ドラマ音楽)から、湯浅譲治が作曲した、大河ドラマ「徳川慶喜」のサウンドトラックをきいてみましょう。。もう10年ぐらい前になりましょうかね。今は「坂の上の雲」で秋山真之を演じる本木雅弘が主人公の徳川慶喜を演じました。ちょうどいろいろあったころで、なかなか見られなかったのですが、オープニングテーマに大きなインプレッションを感じたのを覚えていました。早速サウンドトラックを買いに走りました。

このテーマ、オケの曲なのですが、使われている旋律には日本の伝統音楽が活かされています。五音音階的ななフレーズがフルートとオーボエなどで演奏されたあと、切れ目なくメインテーマに入っていくのですが、ここのヴァイオリンのフレーズがものすごく良いのですよ。雄大な広がりをもった希望に溢れた旋律。この旋律は何度も膨らみながら高揚へと達します。この旋律の下で支えるコントラバスとチェロのリフが泣けて仕方がない。こういうベースラインを聴くと、ベースって本当に大事だ、と思います。その高揚は、再び日本的五音階に遮られてエンディングへと向かいます。最後の幾ばくかの寂寥感は、全うできずに大政奉還となった徳川慶喜の無念の思いでしょう。

この曲を聴くと確かに少々「デジャヴ」ですが、先に触れたようにそれだからといって、退屈な音楽ではありません。湯浅さんのオーケストレーションの巧みさががっちりと底辺を固めておりますし、引用の範囲でありましょうから、とても素晴らしい音楽に仕上がっております。もう入手困難やも知れませんが、機会があればぜひぜひ。

 

Classical

さて、いつのまにやら年は明けておりました。あけましておめでとうございます。

2009年の振り返りも終わらぬままでございました。回顧録的にまた書いてみたいと思います。

昨年の私にとっての大事件、それはペーター・シュナイダー!!です。

今年の1月、ペーター・シュナイダーさんが来日し、東京フィルを振りました。「ばら騎士組曲」と、オケ編曲版の「ニーベルングの指環」。このときもやはり泣き濡れた演奏会。シュナイダーさんには泣かされっぱなしです。それから、今年のバイロイト音楽祭でもシュナイダーさんは「トリスタンとイゾルデ」を振られたのですが、これはウェブラジオでエアチェックしました。この音源、一ヶ月ぐらい繰り返し繰り返し聞き続けていました。ここまで一人の指揮者に惚れたのは初めての経験かもしれません。

昨日、タワレコでシュナイダーさんのCDラインナップを聴いたのですが、買うことができるのはヘップナーとブラウンのCD2枚だけらしい。そのうちの一枚、ヘップナーのCDはこちら。とはいえ、ヘップナーが主人公ですので、やはりシュナイダーさんを十全に味わうというわけには参りません。

Heppner Sings Wagner
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と思いましたが、UKのアマゾンに行くと、ローエングリンのDVDが売っていた。最近ポンド安傾向なので注文してしまいました。

それから、来年のバイロイトも楽しみです。

このコーナー、まだまだ続きます。

 

Classical,Literature

先だっての戯言の続きです。

現在のクラシック音楽の潮流として中心にあるのは過去の作曲家の音楽を演奏するということですが、当然のことながら旋律、和声、拍節を変えることはおおっぴらには出来ない。細かい譜面の修正や省略などは行われていますけれど。

そこで演奏者に求められるのは主に1)速度、2)音量、3)音色(サウンド)のチューニングです。他にも4)アーティキュレーションの解釈もあったりしますので、まあ主にこの4つでしょうか。

解釈の多様性をもってオリジナル音楽の意味をほぼ無限大に拡張するのが現代のクラシック音楽でして、フレーズを作り出したり、和声を作ったり、リズムを変えたり、という作業は、カデンツァや通奏低音などを除けばほとんどないでしょう。あ、歌手にあわせて転調して演奏することもありましょうかね。

これって、ものごとを質料と形式、あるいは内容と形式、と言う風に古典哲学的に分別して整理してしまうというのが、私の悲しい性。何でも質料形式に分解したくなってしまう挫折学生の悪癖です。

で、旋律、和声、拍節を質料としてとらえ、速度、音量、音色、アーティキュレーションを形式と捉えると、今の音楽のあり方は、素材を解釈して再生産するという過程であると言えましょう。質料=中身よりも、その見せ方、弾き方、解釈の仕方で勝負をしているのが現代クラシック界でしょう。(オペラ演出の問題もありますが、それは音楽の解釈性とはちょっと外れますのでここでは割愛します)

もう、「内容」をどうこうするのは野暮である、という時代なのでしょうか。これって実は文学においても同じで、純文学の世界では「内容」がどうか、という問題よりも、どれほど新しい形式を持っているのか、という方向に進んでいるようです。私は現代思想はさっぱり知りませんので、ここまでしか書けませんけれど、まあ、文芸評論の方々が書いてあることを読むと、物語の中身を楽しむ文学というものは、余りに当たり前すぎて論じる意味がない、というように読めることもありまして少々寂しいですね。

もちろん、文学もいろいろでして、SFとか推理小説なんて言うものもあります。ですが、SFもアシモフ的な内容を読ませるSFを脱却した新しいSFもあります。ディレイニーの「ノヴァ」を読んだのですが、私にはさっぱりでした。ほとんどジョイスを読んでいるかのような感覚。あ、私はジョイスも全然読めていません……。

もう少し続きます。つづきはまた。

Classical

 さて、いつの間にやらクリスマスなるものは終わっておりますね。帰宅前に駅前のスーパーに入ってみると、クリスマス商品はすべて撤去されており、正月モード全開でございます。加速を無限大に行うと光速に徐々に近づいていくそうですが、体感時間は短くなるそうですね。ウラシマ効果。でも、最近は逆ウラシマ効果です。

この街に住んでもう次で8回目の正月です。歳をとればとるほど時間は加速していきますね。気づけば、我が生涯でもっとも長く住んだ街になっております。小さい頃は転勤族でしたので、いろいろ各地を引っ越しましたので。ついこの間まで故郷なき男。ですが、今や、今今住んでいるこの街が故郷になりつつあるような。。引っ越したくないですが、近々職場毎都心方面に移動するので、そのときどうすればいいのか。。。

クリスマスということで、昨日はアバドとラトルの2バージョンでベートーヴェン交響曲第9番を。私がまだ若かったころ、N響でオトマール・スイトナーが振ったのをNHK-FMで聴いたのですが、それがデフォルト盤になっている感じです。スイトナーの指揮と、アバド、ラトルの指揮があまりに違うので驚きました。まるで別の曲ですね。どちらかと言えばラトル盤の方が好み。音量調整、速度調整が私のよくフィットしました。ですが、終幕部のスピード感は少々速度超過気味ですが、ぎりぎりセーフな感じ。スリリングな第九でありました。

今日は、レヴァインのパルジファルを。これ、来年四月のシルマー指揮のパルジファルの予習です。こちらもぬかりなくがんばらないといかんですね。

Classical

 どうにもやることがたくさんあるのですが、それでも毎日音楽を聴くようにしています。前にも書いたかも知れませんが、音楽聴いていないコンプレックスを持っていまして、他の方々よりも聴いている量が半端なく少ないので、こつこつ聴かないといけません。

何でこんなに聴けていないのかなあ、と思ったのですが、高校二年頃からジャズ・フュージョンを聴くようになってしまった、というのが大きな要因かなあ、と。高校の頃何をやっていたのか覚えていないのですが、実は音楽を聴いてデジタルホーンを吹きまくっていたのでした。おかげで大学ではジャズ研究会に入ることが出来ました。当然のように挫折したのですが。

というわけで、取り戻すためにも、毎日頑張って音楽を聴いています。

今日は、コジ・ファントゥテを少々。モーツァルトのオペラは勉強不足ですので。

聴いている音楽の偏り

それで思ったのですが、私の音楽に対する感覚というのは、結構偏っているかも、というところ。特に、この7年ぐらいオペラを聴き始めてからずいぶん感覚が変わってきている、と言うことに気づいたのです。

音楽を構成する要素

音楽を構成する要素は、音色、音階、拍節だと思います。音階と拍節によって旋律が成立します。それから、旋律の速度とか、音量などの要素が入ってきます。あとは和声と対位法というとらえ方もありましょうか。

(メロディ=旋律、リズム=拍節、ハーモニー=和声 が音楽の構成要素と言われることがあるようですけれど)

デジャヴとバリエーション

それでですね、和声と対位法とか、旋律などはもうだいぶんと使い尽くされているのでは、ということ。旋律なんかだと、J-POPあたりになると常にデジャヴとともにあるような感じもします。

商業音楽の話しになると少々ずれるので、強引にクラシックに話を戻すと、クラシック音楽はほとんど過去の曲を再生産しているイメージです。新たな旋律や和声が組み込まれる機会は極めて少ないです。

それで、何で勝負しているのかというと、1)音量とそのバランスとか、2)旋律の速度など、それから3)音色=サウンドというところになりましょうか。他にも言葉では説明できないグルーヴ感のようなものもありますが、それはおそらく1)と2)の組み合わせなのかなあ、と。

サウンドへの感覚

私の場合、以前だと、1)とか2)に重きを置いていた気がするのですが、オペラを聴き始めてから途端に3)の要素に敏感になってきた気がします。歌手の声というのは、楽器のそれと違い個体差が極めて大きいですよね。同じ旋律であっても全く印象が異なります。その違いを何とか説明しようとすると、声色=音色=サウンドへの注意力が増した気がします。ヤノヴィッツとポップの違いを言葉でどうあらわすべきか、とか、実演に触れた際に、歌手の声質をどうやって伝えるべきか、などなど。

歌手の声質もそうですが、それに加えて録音場所とか録音への感覚も昔よりついてきた気がします。これはもうルカ教会との出逢いが一番大きい気がいたします。昨日書いたように、同じルカ教会でオケも同じなのに音が違うというのは、指揮者の影響なのかエンジニアの影響なのか、というような話しになって、ワクワクします。

この続きもあるのですが、それはまた明日。

 

Chorus

先日も触れた名曲探偵アマデウスでフォーレのレクイエムが取り上げられていて無性に聴きたくなりました。サー・コリン・デイヴィスがシュターツカペレ・ドレスデンを振ったフィリップス盤。それにソプラノはルチア・ポップですからね! 録音はやはりルカ教会です。この豊かなリバーブ感がたまりません。中音域にの柔らかさのしっとりとした感覚は至福の境地。ここは賛否両論かもしれませんけれど私はいいと思います。クライバーの「トリスタンとイゾルデ」もオケと録音場所が同じですが、印象はかなりことなります。クライバーはかなり高音によったサウンドですので。エンジニアの違いもありましょう。
しかし、この曲の持つ浄福感には癒されないわけがありません。

リベラ・メの緊張感は最後の裁きを待つかのような気分に。フォーレの管弦楽曲集で聴いた「マスクとベルガマスク」を思い出しました。いまから7年ほど前にプラッソンの全集を狂ったように聴いていたのを思い出しました。あの頃読んでいたプルーストが懐かしい。まだ半ばまでやっときたところなのですが。もちろん辻邦生先生の影響ですが。
ちょっと話がそれました。デイヴィス盤のレクイエムに話を戻しましょう。
Pie Jesuでのポップは素晴らしいです。透き通り金色に輝く啓示。神がいたとしたら、こんなふうに語りかけてくるに違いありません。他のソプラノの方の録音とも比べてみたのですが、ポップの歌は透き通るだけではなく、倍音を含んだ芯のある声と言うことが分かります。もちろんルカ教会ということもありますが。
ちょっとこれはしばらくこのCDに癒してもらわないといけません。仕事付き合いにもすこし飽きてきましたので。
今日は本を読む元気がなかったので、電車の中から携帯を使ってポストしました。ではまた明日まで。