本日いただいた和菓子。春の風情満載でありがたい限りです。
今日は午前、午後とプライベートな用事で、休日が終わってしまいました。先週の徹夜仕事の疲れも抜けず。
ですが、マゼールを楽しんだ週末でした。マゼール、こんなにフィットするとは思いませんでした。とにかく、驚きの連続、という感じ。クラシックにこんなにスリリングなものを感じたのは、チェリビダッケを聴いたとき以来です。もっと早くに聞いておけばよかった、と後悔。
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では取り急ぎグーテナハトです。
人間には何といろいろな啓示が用意されているのだろう。地上では雲も語り、樹々も語る。大地は、人間に語りかける大きな書物なのだ。…… 辻邦生
本日いただいた和菓子。春の風情満載でありがたい限りです。
今日は午前、午後とプライベートな用事で、休日が終わってしまいました。先週の徹夜仕事の疲れも抜けず。
ですが、マゼールを楽しんだ週末でした。マゼール、こんなにフィットするとは思いませんでした。とにかく、驚きの連続、という感じ。クラシックにこんなにスリリングなものを感じたのは、チェリビダッケを聴いたとき以来です。もっと早くに聞いておけばよかった、と後悔。
では取り急ぎグーテナハトです。
ところがです。私は念のため《カルメン》の楽譜を見ました。そこ信じてはならない、という意味のフランス語を見出しました。Prends garde à toi というものです。フランス語の素養がありませんので(この件については現在激しく後悔してますが)、Google翻訳を通してみました。すると別の意味が出てきます。直訳だと「あなた自身のために外を見る」です。あれ、「信じてはいけない」とまではいってません。もう少し砕けて解釈すると「気をつけろ!」ぐらいだと考えます。つまり、昨日の番組の文脈で捉えると「革命には気をつけろ!」ぐらいのニュアンスになりそうです。
さて、ネットでいろいろ調べてみると、この点について指摘されている記事も見つけました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~smacky/classic3.htm
行き交う人もまた旅人なり。
オペラシティでの風景。こういう無機質な雰囲気も嫌いではないです。
昨日から、アバドのマーラー全集のなかから、7番を聴いています。
以前も書いたかもしれませんが、こんな会話をしたことが有ります。
私のイメージでは、マーラーは、実に直情的に世界を描いているのだと思います。ですが、シュトラウスは婉曲に世界を描いているのではないか、などと思います。哀しみや怒りは、マーラーの場合、直接心に響きますが、シュトラウスの場合は、物語の中に横たわっていて、あとでジワリと効いてくるような感覚です。
ですので、マーラーが少し激しすぎて、なかなか乗れない時期というのがあって、それが最近ようやくとけてきたなあ、という感じです。
アバドの指揮は実に陰影がはっきりしています。ひとことで言うと、「狂おしい」演奏、なのかもと思います。
それにしても、こういうアバドの指揮の機微が分かるのも、音楽を聴き続けてやっと、というところですね。さすがに聴き始めた小学生や中学生の頃は、そこまでわかりませんでした。あの頃は、同曲異演の違いなどわかりませんでした。まずは、いろいろな曲を聴きたいという感覚が強かったですし、当時はレコードやCDを買う資力もありませんでしたから。今は、NMLがあったりしますのでまた事情はべつでしょうね。
では、今日もグーテナハトです。みなさま、よい週末をお過しください。
週末は今日でおしまい。なんだかあっという間に過ぎ去ってしまいました。
年末に録画していた2014年の音楽ハイライトを見ていました。昨年なくなったロリン・マゼールの追悼コーナーもあって、2012年にN響を振った《ボレロ》が抜粋ですがオンエアされてました。
解説の広瀬大介さんもおっしゃってましたが、ボレロはそうそう指揮者によって差異が出にくい曲だそうです。
が、鬼才マゼールはやはり違いました。最後の転調の場所でテンポを一瞬、かなり緩めて、またテンポを戻すのですね。あれ、ブレーキ踏まれた感があります。で、その後もテンポはぐちゃぐちゃに。ここまでエキセントリックなことをやっちゃって、あれ、これって、でもなんだかスゴイ、と思わせるのは、相当だと思いました。
先日買ったマゼールボックスでも《ボレロ》をやっていますが、これもN響の録画ほどではないですが、そういう仕掛けがありました。
マゼール、最高です。やはり2012年に聴きに行っておくべきだったなあ。
ではグーテナハトです。
私、ハフナー、つまり、モーツァルトの交響曲第35番。あの冒頭の跳躍がすごくて。。みたいな。
今回はアダム・フィッシャーです。
おそらく編制が小さいと思います。実に音の粒が際立ったいい演奏です。そうか、指揮者のやれることというのは、こういうこともあるのですね、とあらためて思いました。オケを選ぶことで、音色を変える、ということもできるわけです。それにしても、爽快な演奏です。重みはありませんが、だからとって、軽いというわけではなく、鋭敏さも持ち合わせています。
(なんだかワイン品評のような文章。。)
アダム・フィッシャーとデンマーク放送室内管弦楽団の演奏です。アダム・フィッシャーは、数年前に《タンホイザー》を上野で聴きました。演奏も素晴らしかったですが、人柄も素晴らしい方だったと記憶しています。話したわけではないですが、序曲後のまばらな拍手に、演奏しながら振り向いて会釈したり、カーテンコールで謙虚な振る舞いを見せたり。。
こういう品性が世の中でどんどん見られなくなっているのは残念なことだなあ、と思います。まあそうしないと生きていけないんですけれど。
ちなみに、デンマーク放送室内管弦楽団は解散の危機のようです。
なんだかなあ。歴史の終わり。まあ、歴史なんてものは幻想だったということ。進歩なんてないのです。さみしいものです。もっとも、進歩というのも、人それぞれ。違う意味では進歩しているのかもしれませんけれど。
とはいえ、この演奏はオアシスのような演奏でした。しばし心あらわれました。
では、グーテナハトです。
何かレトロな感じな写真です。このグラデーションがたまらないですね。
先日面白い記事をネットで読みました。
経験的に、楽器やると頭が回るようになると思っています。久々にセッションに二ヶ月連続で行った直後、余りに頭が回るので(錯覚なんですけど、きっと)、驚いた記憶があります。
以前本で読んだことがありますが、受験勉強に専念するという理由でピアノのレッスンをやめた途端に成績が落ちた中学生がいたそうです。楽器演奏は瞬時に頭をつかって様々な判断をしながら、拍数の計算も行う、実に知的な営みだと思います。それは感性というよりむしろ理数系の計算能力に近いと思います(だからといって、理系の方がみんな楽器ができるわけではないようですが)。
という文脈で以下の記事。エビデンスはわかりませんが、なんとも魅力的な記事。私はおそらくはこれは、正しいと思っています。
http://www.lifehacker.jp/2015/01/150103magic_skill.html
楽器演奏の効能は以下のとおり。
すばらしい!!! 私も頑張らないと。
このテーマ、これまでなんども書いていますがまた書いちゃいました。
というわけで今宵も少し弾いてみようかと思います。
ではグーテナハト。
wikiなどを参照し、ロリン・マゼールのポストをまとめてみました。
こう見ると、一時期に2オケしか掛け持ちしていないということがわかったりして。年表にするといろいろ見えてきて面白いですね。
さらには、先日ご紹介したこちらのCDのリリース時期をプロットしたものです。これを見ながら聴くと、マゼールの変遷が分かりそうです。以下クリックすると大きくなります。
※ Aeon Timelineというソフトをつかったんですが、もう少し改善の余地がありそう。。
ではとりいそぎ。
新年二日目。皆様いかがお過ごしですか。
わたくしは、いつもの休日とおなじように淡々と過ごしております。今年は事情により、自宅からあまり離れておりませんので、なおさらです。
今日は家族でこちらの一枚を。
昨年なくなったマゼールのボックス。この音源は既に持っていて、5年前に一度紹介してました。
5年前に書いたとおり、本当に「大きな大きな」演奏です。演奏家が違うとここまで曲が変わるのか、ということがよく分かる名演だと私は思っています。絶妙なテンポのずらしがたまらないです。ラトルやペーター・シュナイダー、チェリビダッケもそうですけれど、こういうコクのある演奏は、カラヤンのような筋肉質で冷静な指揮とは違い、聴いていて何度も驚く楽しみというものがあります。「意味」というのは驚きや違和感において生じるもので、均一なところには生じることはありません。
もちろん、違うタイプのカラヤンの演奏もかつてとは違う驚きがあったからこそ、ということはありますので、念のため申し添えます。
マゼールは最近来日していました。聴きに行ければよかたのですが、なかなか時間がとれません。難しいものです。
そういえば、シュトラウスがこの《ツァラトストラはかく語りき》を作曲した理由って、なんだっけ、というのをなにかの演奏会パンフレットで読んだ記憶がありました。ニーチェ思想が流行っていたころのことですので、それに影響されて書いた、ということもあるのでしょうが、私がパンフレットで読んだのは、逆説的にあえて大袈裟な交響詩にしたてて揶揄したのである、というようなものでした。
ちなみにこのボックス、こちらの演奏が収められています。ベートーヴェンのとシベリウスの交響曲全集。シュトラウスの主要オケ曲。チャイコフスキーの交響曲全集、ホルスト《惑星》、レスピーギのローマ三部作など。オケ好きにはたまらないボックスです。前述のとおり、シュトラウスの音源は持っていたんですが、その他の音源があまりに魅力的なので買ってしまったのでした。
東京地方は雪は降りませんが寒さはなかなか厳しいものがありました。明日も一応西高東低のようで、寒い一日になりそうです。みなさまお身体にお気をつけて三が日をお楽しみください。
それではグーテナハトです。
今日は、ゆえあって自宅にて待機。最近疲れ気味で、午後、うとうととしてしまったのですが、NHK-FMをつけると、サヴァリッシュが1986年にN響を振ったメンデルスゾーンオラトリオ《エリア》が流れていました。
で、あらためて驚いたんですが、ルチア・ポップが歌っていたんですね。日本に来ていたとは。。テノールは、ペーター・ザイフェルト。バリトンはベルント・ヴァイクル。いずれもドイツ系の名だたるみなさん。本当に透徹とした歌で、ウトウトしながら聴いていてごめんなさい、という感じでした。サヴァリッシュの指揮も堂々たるものでした。
私、この《エリア》が録音された1986年ごろから本格的に音楽を聴き始めています。この《エリア》の演奏会の録画放送の予告編を見た記憶があります。あれから28年ですか。。早いものです。。
あ、レリス「オペラティック」も引き続き読んでいます。京劇やハイチのブードゥー教までもが言及されています。刺激的。っつうか、もっとオペラ見ないとなあ、とあらためて思いました。
それでは取り急ぎグーテナハトです。
本当にラトルって、スゴイですね。あらためて凄さを感じました。
ベルリン・フィル・デジタル・コンサートホールでフォーレの《ペレアスとメリザンド》を聴きました。
ラトルの凄さは、微細なテンポと音量のコントロールにあるといつも思っていましたが、この映像はまさに真骨頂という感じです。いや、確かにライヴですので、オケに何かしらの疵はあるのかもしれません。
しかしながら、数値化できない微妙なテンポの揺れが音楽に陰影と味わいをつけているのがよくわかります。音楽はメトロノームではなく、こうした微細な心遣いによるものなのだ、と改めて思います。
それにしても、蜜月のラトルという感じですね。
2011年1月21日の収録。
※冒頭の画像はイメージで、記事の音源ではありません。
ここからはおまけです。
いや、それにしても寒くなりました。東京地方も冬模様です。東京の冬はカラッとした晴天が続きます。これは世界的に見ても恵まれた冬景色なのかもしれません。前にも何度か書いていますが、とあるドイツ人は、東京の冬の晴天を観光資源だと捉えていたそうです。
私も2001年にドイツに行った時、恐ろしく晴れた冬空のもとを歩いた記憶があります。
こちら。冬の西日に輝くライヒスターク。竣工まもなくのはず。
そして、ジーゲスゾイレから眺めた東ベルリン方面。かすかに見えるブランデンブルク門。乱立するバウシュテレのクレーン。壁崩壊から10年ぐらい立った頃です。
それではグーテナハトです。